聖マリアの無原罪教育宣教修道会では、子どもたちや若者たちがキリスト教的教育を通して真の幸福を見つけられるようお手伝いしています。

 

聖書の学び資料

 
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世界が終わる時

マルコによる福音 13 14-27節

 

 聖書には、世界の終わりについての記述が多くあります。教会では11月のミサの福音箇所として読まれる部分です。これらはイエス様の再臨を連想させられますが、同時にイエス様の死や神殿の崩壊とも重ね合わせています。これらが起こる徴として、「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」と書かれている部分を今日は読みました。この表現は旧約聖書の記述が元になっていますが、「破壊者」とは「偶像」のことです。「偶像」の立ってはならない場所とは、神の立つべき場所、つまり神殿です。神様のあるべき所に偶像がある、人々が神の代わりに偶像を拝むようになったら、それこそ世界の終わりだということです。神ではないのに神になってしまう物、神様よりも大事にしてしまっているものとは何でしょうか。現代の私たちは、神様を象徴する物や神様を思い浮かべる助けとなる十字架やご像を、目に見える形でつくりますが、その物が神様になっているわけではありません。これらは、神様を思い浮かべる手段です。しかし、このような物でなくても、神様よりも大事にしてしまっているものを持っている可能性があります。お金は生活する上で必要でしょう。しかしお金が偶像のようになってはいませんか。時間も大切です。しかし、何よりも時間を大事にすることを最優先にして、神様のために時間を使うことを忘れてしまっていませんか。人間関係だったり自分の将来だったり名誉や世間体だったり、神様を大切にする以上にこれらを大事にしてしまってはいないでしょうか。何よりも神様が一番でなければ、それは偶像崇拝になってしまうのです。神様よりも大事なものが現われ、自分の心に悪が入り込むようだったら、「山に逃げなさい」とイエス様は言いました。「山」とは聖なる場所です。現代の私たちにとって、「聖なる場所」とはどこでしょう。自分にとって、心の洗われる「聖なる場所」とはどこですか。自分の心をその「聖なる場所」に置いてください。

 世界の終わりについての記述でイエス様が一番強調していることは、「目を覚ましていなさい」ということです。世の終わりはいつ来るのか誰も知らないから、いつ来ても良いように常に気をつけていなさいということです。常に心を聖なる場所へと向けて、限りある命の時間を有効に使うように、神様に信頼して神様の望まれる生き方をする努力をしなければいけないのです。神様の望まれる生き方とは、どんな生き方でしょうか。人生の最終目的は何でしょうか。その目的のために、常に目を覚ましていられたら。

 世界の終わりには「太陽は暗くなり、月は光を放たず・・・」と書かれています。太陽と月は、カレンダーや時計の役割を果たすことから、この宇宙の「時間」が破壊されることを表現しています。また、太陽と月や星、天体は、宇宙の広がりです。つまりこの宇宙の空間と物質が破壊されることをも表現しています。ビッグバン以前の状態、混沌状態へと戻るのだと聖書は言うのです。現代の科学と聖書を結びつけて考えたことはありますか。ビッグバン以前の宇宙は「無」が揺らいでいたそうです。聖書の天地創造の場面では、世界は混沌であり神の霊が水の上を動いていたと書かれています。現代科学の「無の揺らぎ」と通じるものがあります。聖書ではまず初めに「光」がつくられました。宇宙は「無」の揺らぎからビッグバンが生じ、光の粒子がものすごい勢いで飛散して空間を押し広げならが、宇宙誕生となります。つまり光の誕生です。聖書では太陽や月、星の誕生についても描かれています。宇宙科学では、最初の原子で水素とヘリウムが誕生し、それが集まって巨大な星が生まれました。その星は短期間で爆発しては、その威力で様々な物質が化学反応によって誕生し、その物質が集まってまた星が生まれ、地球のような星が誕生しました。聖書では、植物、動物、人間の順で作られましたが、地球での進化を考えると、これも相通じる物があります。このように考えていくと、聖書も科学も面白くなってきます。信仰の目で科学を見ると、聖書に対する確信が深まるのではないでしょうか。世界の終わりがどのような形でやってくるのかは分かりませんが、神様のつくったこの宇宙の素晴らしさに目を向け、常に神様へと心を向けていたいです。
 
愛すること愛されること

マルコによる福音 12 28-34節、41-44節

 

「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これは、シェマ(「聞け」の意)の祈りと言われるものです。ユダヤ教では現在に至るまで、朝晩の祈りとしてこれを唱えています。聖書の中でこの言葉が最も重要で第1の掟であることは、律法学者であれば誰もが知っていたはずです。「あらゆる掟のうちで、どれが第1でしょうか」という質問は、イエス様が間違った答えをした時に陥れるためか、イエス様が師として本物かどうかを確認するためのどちらかだと考えられます。そして、今回の律法学者の場合は、後者です。「イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた」という記述からも、それは分かります。この律法学者は、純粋にイエス様に尋ね、その答えに納得しました。イエス様はこの律法学者を「あなたは、神の国から遠くない」と褒めます。しかしよく考えると、「神の国から遠くない」かもしれませんが、神の国に入れるわけではありません。もう一歩が必要なのです。その一歩とは、何でしょう?

今日のテーマは「愛すること愛されること」です。イエス様は私たちに、最も重要な掟をくださいました。神様を愛する場合、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」とあります。つまり、自分の中で神様を愛することが最高のことでなければならないのです。愛とは、相互関係です。神様を愛する時には、私たちが神様を愛する前に、神様が私たちを愛してくださっているはずなのです。私たちに対する神様の愛をどれだけ感じるかによって、私たちの神様への愛の深さ、大きさは違ってくるでしょう。私たちに対する神様の愛、あるいはこの自分に対する神様の愛を証明するものを、列挙してみてください。神様から与えられた「良いもの」を列挙してみてください。私たちが、神様からどれほど愛されているのかを実感してみましょう。次に第2の掟ですが、隣人を愛する時には「自分のように」なのです。「神を愛する」時とは、条件が異なります。自分を愛するように他人を愛すること、つまり、まず自分を愛することが大条件になっています。「私」は、「私」から愛されることが必要なのです。これは、ただのわがままや自己中心的愛ではありません。「愛」とは大切にすること、自分を大切にすることです。この二つの掟には、「神様からどれほど愛されているか」「自分は神様をどれほど愛しているか」「自分を大切にしているか」「他の人を大切にしているか」の4つのことが含まれているのだと思います。今日は、この律法学者が神の国に入るために欠けているものは何か、さらには上述の4つの事柄を実践するにあたって、自分にとっての「もう一歩」とは何なのか、考えてみたいと思います。

12章の最後「やもめの献金」の話を見ると、このやもめはなぜ生活費すべてを賽銭箱に入れたのか、考えさせられます。賽銭箱とは、税金や献金を入れるために神殿に置かれた箱です。わざわざ「レプトン銅貨2枚」という記述をしてあるのは、1枚を手元に置いて1枚だけを賽銭箱に入れることも出来たのに、「すべて」を捧げたということを強調しています。巡礼の季節だったので、神殿には大勢の人でごった返していたはずです。その中でイエス様はこのやもめに目を留めます。「乏しい中から自分の持っている物すべて」、これは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」神を愛することと同じではないでしょうか。ここでは、律法学者とやもめの姿が、対照的に描かれています。金持ちである律法学者は有り余る中から多くの額を捧げ、人々の賞賛を受けようとします。しかし貧しいやもめは、少なくても生活費すべてを神様に捧げるのです。どれほど心のこもった捧げものであったことでしょう。そこには、神様への愛があったのだと思います。そして、すべてを捧げたくなるほど、神様からの愛を感じていたのではないでしょうか。この「やもめの献金」の話は様々な観点から読めるものですが、今日は「愛」をテーマに分かち合えたらと思います。

 
イエスの不可解な行動

マルコによる福音 11章 1-14節

 

 時々、聖書を読んでいてイエス様の行動が理解できないことがあります。弟子たちが驚く場面も聖書には描かれていますが、その一つが、エルサレムへ向かうということでした。イエス様と弟子たちがまだガリラヤ周辺で活動していた時、ファリサイ派の人々や律法学者たちがエルサレムから来て、イエス様に議論を仕掛けたりしていました。そして、掟よりも愛を大事にするイエス様に反感を抱き、イエス様を殺そうとまでしていたのにもかかわらず、その律法学者たちのいるエルサレムに行くということは、死に行くようなものです。弟子たちは、イエス様がなぜエルサレムへと向かうのか理解できませんでした。弟子たちはイエス様を、ローマからの解放に導く指導者と思っていたため、ここで死んでもらっては困るのです。そんな中、今日は、いよいよエルサレムの街に入って行くという場面を読みました。理解できないことの中には、イエス様がロバに乗ってエルサレムに入ったということもあげられます。ロバは、ローマからの独立のために戦うためのものではありません。戦うためなら馬に乗ります。人々は、働くため、荷物を運ぶためにロバを使っていました。日常、つまり平和を象徴しています。ロバを見ると、「平和ボケ」をイメージしてしまいます。イエス様はロバに乗ることで、戦うのではなく平和をもたらそうとしていることを象徴しています。この場面から今日は、改めて平和について考えてみたいと思います。日本は平和の国と言われますが、戦争がないということだけが平和なのでしょうか。私たちの身近に、人との関わりの中に、あるいは私たちの心の中に、平和があるでしょうか。そして、これから殺されることが分かっていながら「平和」を強調しているイエス様の心の中は、どんなだったでしょうか。想像してみましょう。

 イエス様は、エルサレムに入ってから様々なことをなさいましたが、マルコの11章には、不思議な行動ばかりが描かれています。いちじくの木を呪う事から始まって、神殿で暴れます。神殿を清めるため、祈りの場である神殿を大切にするために、イエス様はこのような行動を取られたのだとよく言われますが、優しいイエス様、弱い立場の人々を受け入れてくださるイエス様をイメージしている私たちには、このような行動を見せ付けられては、やはり疑問に思ってしまいます。遠くからエルサレム巡礼に来る人々は、神殿に捧げる鳩や羊を持って旅をすることは困難です。神殿での商売は、このような人々のために販売している物で、神殿で商売をしていた人々は多くの場合、それで生計を立てていた人々です。その現状を見れば見るほど、イエス様の行動の理由が分からなくなります。力のある人は神殿の中で商売をし、貧しい人、弱い立場の人は、神殿の外で物を売っていました。ですから、このような差別を嫌ってした行動であるとも考えられますが、やはり疑問が残ります。いちじくの木を呪う話を見てみましょう。これは、聖書学者でも解釈が分かれます。いちじくの季節でもないのに実がないことを呪うなんて、言語道断。常識ではありません。それなのに、「いちじくの季節ではなかったからである」とわざわざ注釈を入れたということは、何かを象徴した話だということです。「実をつけないいちじく」つまり、神様にとって良いものである「実」を付けていない木とは、神様の好む行動をしないイスラエルの人々です。その象徴がファリサイ派や律法学者、祭司たちのものとなってしまった神殿です。いちじくの木を呪うのと、神殿で暴れるのと、同じことを象徴しています。いちじくの木はその後枯れましたが、実際、ユダヤ戦争によって神殿も、紀元70年には破壊されてしまいます。このように見ると、やはり神殿での商売は、神様にとって好ましくないのだということが分かります。神聖な場所は神聖な場所であることをわきまえなければならないのでしょう。現代のお聖堂を神聖な場所として、敬意を示しましょう。何かの機会で教会の近くを通ったら、用事がなくても聖堂をのぞいてイエス様に挨拶する、ということをしてみてください。1週間に一度でも、ミサの前にでも、聖堂にしばらく座って、静かに祈ることもしてみてください。イエス様に対する信仰が深まるのを感じるでしょう。

 
本当の幸せ

マルコによる福音 10章 13-22節

                         

 今日は、イエス様が子どもたちを祝福した出来事を読みました。よく、祝福をいただくとか、祝福を祈ると言いますが、祝福とは幸せを祈ること、神様からの恵みを願うことです。イエス様は、当時蔑まれた存在であった「子ども」を祝福し、その幸せを願いました。

子どもは素直です。子どもは、自分ではいろんなことができないため、大人に依存します。それを、神様に信頼する姿として聖書は捉えています。このような神様(大人)にすべてを委ねる子どもこそ、天国に入ることができるのだとイエス様は言い、その幸せを保障しているように思われます。祝福は、自分に対してすることは決してありません。自分を祝福する人などいません。祝福は、自分以外の誰かに対してするものです。つまり、自分の幸せではなく、人の幸せを願うことです。人の幸せを、心の底から願ったことはありますか?小さなことでも、他人の幸せを願った体験を分かち合いましょう。

 

 その後イエス様は、いよいよエルサレムへと向かって旅を始めます。イエス様は、自分はエルサレムで殺されることを予告し始めており、また現に、エルサレムから来た律法学者やファリサイ派の人々から目をつけられていました。それにもかかわらず、これからエルサレムへと向かおうとされていることに、弟子たちは驚いていました。そんな中、ある人がイエス様に走りより、「善い先生」と言います。聖書の世界では、「善い」という表現は神様に対してのみ用いられます。それをこの人は、イエス様に対して用いました。イエス様は、なぜ「善い」と言うのかと問い返しましたが、これは、本当にイエス様のことを神様だと信じているのかという問いかけだったのです。イエス様は、この人の信仰を確かめましたが、最終的には彼は悲しみながら立ち去り、本当にはイエス様を信じていなかったことが分かります。そして、真の幸せをも受けることはできませんでした。

当時、裕福なことは神様から祝福を受けているしるしであり、富は神様からの恵みであると考えられていました。神の国の実現は、金持ちであれば保障されていたのです。よって、持っている富を手放すことは、神様からの恵みを捨てることであり、この人にとっては受け入れ難いことだったのです。つまりこの人は、富の中に幸せを見出しており、その幸せが永遠に続くことを望んだのです。現代の私たちは、どうでしょうか?何に幸せを見出していますか?この人はその幸せがずっと続くために富に執着したように、私たちも何かに執着してしまっていないでしょうか?

今回は、財産のある者は神の国で永遠の命・幸せを受けることは難しいという話でしたが、印象深いのは「人間にはできることではないが、神にはできる」と締めくくったイエス様の言葉です。この言葉が何を意味しているのか考えてみましょう。そして、今から一人の青年のある体験を聞きます。その体験談も併せて、自分の求めている幸せが何であるかも分かち合ってみましょう。

 
イエスの教え

マルコによる福音 9章 33-50節

                           

 イエス様はこれから受難を受けるためにエルサレムへ向かおうとしています。そんな中、弟子たちは、誰が一番偉いかという議論をしていました。当時の人々は、偉くなったり金持ちになったりすることは神様からの祝福だと考え、誰もが偉くなりたいと思っていました。しかし、イエス様の問いかけに黙っていた弟子たちは、この議論がイエス様の弟子である自分たちにはふさわしくないものであることを知っていたのです。人より偉くなることがどれだけ虚しいことなのかを知りながらも、まだそれを行動に移すことまではできず、やはり、人より偉くなりたいという気持ちが優っていたのでしょう。そんな弟子たちを見たイエス様は、偉くなるのではなく人に仕える者になることを勧めます。イエス様の教えの一つですが、では人に仕えるとは、具体的にどのようなことなのでしょう?私たちは、実際に生活する中で、具体的にどのような行動をとるべきなのでしょう?ここでは、もう一つ大事な事を、イエス様は私たちに教えています。子どものような人を受け入れなさい。子どもとは、当時は人として認められていない存在でした。女性、罪びと、病人、異邦人、子ども、これらは蔑まれ、社会からのけ者にされていたのです。つまり、子どもを受け入れるとは、一般的に考えて受け入れ難い人を受け入れなさい、ということです。現代の社会でのけ者となっている人々、あまり注目されない人々、社会の谷間に置かれた人々とはどのような人々なのでしょう?そのような人々への関心はありますか?これらの人々を「受け入れる」とは、具体的にどのような行動を取ることなのでしょうか?

 次の話でイエス様が私たちに教えていることは、自分の言動の中にある野望や自己中心的な考えを見極め、その言動が本当に望ましいことなのかをしっかり識別しなさい、ということです。日々、自分の言動を見つめ返しましょう。一日のうち、昼休みに一回、夜寝る前に一回、糾明を行うことが望ましいです。糾明とは、その日の自分を振り返り、イエス様の弟子としてふさわしい言動をしたか、神様を感じて感謝のうちに過ごしたかを振り返ることです。ほんの一瞬でも、ちょっと一息を付いて神様に心を向け、そして再び仕事に戻ることができたら良いと思います。

 もう一つ見たイエス様の教えは、「自分のうちに塩を持ちなさい」です。「塩」とは、その人の価値、その人がその人であるためのものです。人の存在価値は何か?それは神様から愛された存在であるということです。誰もが神様から望まれて存在しています。神様は、望まない人など創らなかったでしょう。存在しているということは、神様から望まれているのです。神様から望まれた価値ある存在である私たちは、その価値()を手放してはいけませんし、人の価値()を奪ってもいけません。今日は「名前」についても考えましたが、名前はその人そのものです。自分の「名前」について分かち合ってください。そして、神様からどれほど愛されて今自分が存在しているのかを味わいましょう。人と関わり、人と分かち合うことで、人は神様の愛を体験します。自分のうちにある塩(価値)をしっかり持ち続けましょう。そして、その塩(価値)を人と分かち合う場、神様の愛を体験する場を持ちましょう。この「学び」も、そのような場となれたら幸いです。

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