聖マリアの無原罪教育宣教修道会では、子どもたちや若者たちがキリスト教的教育を通して真の幸福を見つけられるようお手伝いしています。

 

聖書の学び資料

 
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クリスマス・神との約束

ルカによる福音2章、イザヤ書9章

 

クリスマスには多くのメッセージが込められています。今日は、その中でも特に3つを深めました。まずは「希望の光」です。今日読んだイザヤ書には、神様が救い主を送ってくださる約束の言葉で溢れています。人間は、創世記の物語のように神様から離れていってしまいましたが、その時から神様は、人間を救う計画を約束してくださいました。その約束の実現が、イエス様の誕生であり、イザヤはそれを預言しました。イザヤ書の書かれた時代は紀元前8世紀ごろ、アッシリアという民族に支配され、イスラエル人は、いわゆる暗黒をさまよっていました。その暗闇の中に輝く希望の光が、救い主誕生の予告です。イスラエル人にとっては、支配勢力からの解放が「救い」でしたが、私たちにとっては、罪の痛みからの解放が「救い」です。救い主が誕生したならば、「闇の中を歩む民は、大いなる光を見」、「深い喜びと大いなる楽しみ」が与えられるのです。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」。暗闇の中にあって、この希望の言葉を人々に告げたのが、イザヤ書なのです。これは神様の救いの約束です。苦しい中にあってこそ一層輝くこの預言は、人々の希望であったはずです。

今日のテーマの2つ目、「暖かさ・人々のぬくもり」を味わってみましょう。イエス様は貧しい馬小屋でお生まれになったと、私たちはイメージしています。動物に囲まれ、静かな夜に羊飼いや博士たちが訪ねてきて・・・。しかし聖書には、馬小屋で生まれたとは一言も書かれていません。書かれているのは、宿屋に泊る場所がなく、生まれたイエス様は飼い葉桶に寝かされた、ということだけです。飼い葉桶というからには家畜の居場所なのでしょう。「家畜」ということは、誰か人が飼っているのです。つまり、側には人が住んでいるということです。赤ちゃんが生まれるというのに、側にいる人は放っておかないでしょう。「生まれたぞー!」「水を持って来い!」「新しいワラはもっとあるか!」などなど。人々の暖かい眼差しに囲まれ、喜びと賑わい、そして優しさに囲まれて生まれたイエス様を想像してみてください。日本では、クリスマスといったら恋人とロマンチックに過ごすのをイメージすることが多いようですが、家族と暖かい団欒の時を過ごすのが、西洋では一般です。今年のクリスマスは、家族や身近な人々と暖かい時間を過ごしてみませんか。母マリアが、暖かい眼差しを幼子イエスに向けるように、マリアとヨセフを泊めてくれた家族の暖かさを味わいながら、救い主誕生の喜びを分かち合いましょう。

3つ目のテーマは、「弱い立場にある人への福音・良き知らせ」です。救い主誕生の知らせを天使から受けたのは、羊飼いでした。当時の羊飼いは、動物を扱う仕事をしていたために、汚れた存在として蔑まれていました。羊の世話には休日はありません。安息日を守らない彼らは、その職業ゆえに罪人としてのレッテルが張られ、人里はなれた所で孤独に羊を飼い、町に入ることも控えていた人々です。このような人に、天使が救い主の誕生を知らせたのです。神様の前では、身分も関係ありません。善人も悪人も、神様の前では大切な存在です。汚れた存在とされていた羊飼いが神から選ばれ、救い主に会いに行くという恵みを受けたというのは、当時のイスラエル人にしてみれば意外な出来事であったと同時に、これによって人間の考えによる罪レッテルを解放したのです。社会から追いやられている人、人々から軽視されている人への福音には大きな意味があります。また、天使のお告げに天の大軍が加わって神様を賛美したということは、この喜びの知らせは真実であることを強調しています。天軍は最後に、神の栄光と地上の平和を祈ります。私たちも、クリスマスを祝うことを通して、栄光と平和を祈りましょう。これは、イエス様からのクリスマスプレゼントでもあると思います。

 
マリアへのお告げ・人間の罪

ルカによる福音1章、創世記3章

 

創世記は、世界の誕生に続き、誕生したばかりの人間が世界初の罪を犯す物語が描かれています。アダムとエバが住んでいた園の中央には、「善悪の知識の木」が生えていました。神様はその木の実は食べてはいけないという唯一の規則を人間に与えたのですが、たった一つの約束事すら人間は守ることができませんでした。禁止の木の実を食べたことが悪いのではありません。この物語は、罪とは何かを訴えています。罪とは、まず神様に背くことです。神様の望むことを知りながら、それを行わないことこそ罪です。しかし、アダムとエバはもっと大きな罪を犯しています。蛇は、「食べれば神のように善悪を知るものとなる」と誘惑してきました。「善悪を知る」ことは決して悪いことではなく、むしろ良いことです。しかし、「神のようになる」ということは最大の悪なのです。神のようになろうとした、自分が神であるかのように振舞った、これこそ人類最初の罪であり、人類最大の罪です。さらに悪いことには、その罪を神様から指摘された時、男は女のせいにし、女は蛇のせいにしています。責任転嫁の罪も、ここでは描かれているのです。それ以来、私たちは大なり小なり、何らかの罪を常に抱えています。うそ、悪口、怠慢、無関心・・・などなど。その罪ゆえに、私たちは心を痛めることを良心といいます。近年、このような言葉を聞く事があります。「なぜ人を殺しちゃいけないの?」「人の物を盗んで何が悪い?」「注意していないおまえが悪い」などなど。これらの発言、あなたはどう思いますか?

罪ゆえに傷ついている私たちを、罪から解放・救ってくださった方がイエス様です。私たちは、イエス様は神様であることを信じています。ルカ福音書は、イエス様の神様としての部分を特に強調しています。ルカの福音書を読むと、イエス様の誕生の際、とても不思議な出来事が多く描かれています。マリア様は結婚もしないでイエス様を産みました。イエス様は、人間であるマリア様から生まれたことで、人間です。しかし、聖霊、つまり神の霊・神の力によって生まれたために、神でもあります。これはキリスト教信仰の要となっています。しかしもう一つ、カトリック教会として重要な信仰内容がここには含まれています。マリア様が、神であるイエス様のお母さんになるには、アダムとエバによって罪の状態に落ちてしまった人間であってはならないのです。イエス様によって罪から救われた清らかな人間でなければなりません。そこで神様は、イエス様が生まれる前に、マリア様だけ先に罪から救って、神様の母となるにふさわしい清らかな存在にしたのでした。これが「無原罪のマリア」という信仰で、カトリック教会が大事にしていることの一つです。また、天使のお告げを受けた時マリア様は、「神様のおっしゃる通りになりますように」と、戸惑いながらも神様の言葉を受け入れました。この受け入れる姿勢は、神様からの一方的な働きかけだけで何もかもが進んでいくのではなく、人間の協力も必要であるということを意味しています。私たちはよく、様々なお願い事をします。その時、何もしないでも「祈れば神様は叶えてくださる」のではなく、私たちもそれなりの努力をしなければなりません。それを忘れないようにしましょう。

最後に、宣教について考えたいと思います。マリア様は、天使の言葉を受けた後、すぐにエリザベトを訪問しています。①天使の言うとおり、年を取っているエリザベトに赤ちゃんができたことをこの目で確認するため、②エリザベトは年を取っているのに赤ちゃんができて、何かと大変だろうから、エリザベトを手伝うため、③自分の身に起こったことをエリザベトに話したい、分かち合いたい、天使からの喜びのメッセージを伝えるため、の3つの理由があります。特に、③は宣教の心です。信者でない人、例えば大学の友達や先生、職場の同期や先輩・後輩、家族、近所で仲良くしている方、様々な場で関わっている人々などなどを教会に誘うためには、どうしたら良いでしょうか?この「聖書の学び」に、どうしたら人々を誘えますでしょうか。近年、教会に若者がなかなか集まりません。どのように教会を活性化し、教会が若者の居場所になるでしょうか。皆さんは、教会を盛り上げるメンバーです。

 
福音の始まり・世界の始まり

ルカによる福音1章、創世記1章

 

ルカは医者であったこともあり、病人や女性など弱い立場にある人々に視点を当てて福音書を書きました。マリア様からも直接話を聞いていたようで、イエス様の誕生の場面はとても詳しく、マリア様中心に描かれています。ルカは、福音書の中で女性に光を当てて描き、また祈りを大切にしています。そんなルカ福音の始まりはテオフィロという人物へ捧げられています。テオフィロとはどのような人物であったのかは良く分かっていませんが、「神を愛する者」という意味の名前であることは分かっています。大勢の人物にではなく一人の人に、しかも「神を愛する者」に、ルカは福音を宣べているのです。福音とは、神様からの喜びの知らせです。この喜びの知らせは、神を愛する「あなた」に向けられているつもりで、ルカによる福音を読んでいきたいと思います。

まずルカは福音の始まりとして、イエス様の先駆けとしてのヨハネの誕生について語ります。非の打ちどころのないザカリアとエリザベト。唯一の欠点は、子どもがなかったことでした。当時の価値観として、子どもは祝福の印でしたので、子どもがないということは、神様から祝福を受けていない、つまり神様に背いた生き方をしているのだと人々から思われていました。そんなザカリアとエリザベトに子どもができたのです。「主がエリザベトを大いに慈しまれた」のが分かります。生まれて8日目には割礼をさずける儀式があり、その時に初めて赤ちゃんに名前を付けます。ザカリアは天使から言われたとおり、「主は恵み深い」という意味のヨハネという名前を赤ちゃんに付けました。福音の始まりは、恵み深い主(神様)の登場です。旧約の時代は裁きの神が強調されていたのに対し、新約の時代になって恵み深い神様、慈しみ深い神様こそが本当の神様の姿であることを強調するようになります。

しかし、旧約の神様は慈しみ深くないのでしょうか。今回から旧約聖書についても少し詳しく見ることにしました。旧約聖書を読むと、その中にも神様の愛を感じるものはたくさんあります。創世記の一番初めに天地創造の場面が描かれています。神様は無から宇宙を創られました。人間は様々なものを生み出し、創造しますが、必ず、既に存在する物を利用して造り出します。それに対して神様は、何もないところに何かを創造します。無から宇宙を創りあげたのは、神様の技であるとしか考えられません。神様の言葉によって、混沌とした世界に秩序と調和が生み出されていく様子が、聖書の描く「天地創造」です。聖書では、最初に光が誕生しました。そして神様はそれを見て、良しとされます。次に海を造り、それを見て良しとしました。神様は創造した一つ一つのものに満足したのでした。そして最後に、完成した天地を見て「極めて良かった」と、創世記1章を締めくくります。この世界は、神様が最高に満足した最高傑作なのです。神様が、私たちとこの世界を限りなく愛してくださっているのは、この創世記から読み取れます。創世記は古代オリエントの時代に書かれたと考えられています。その時代の思想ですから、進化論が一般的になっている現代の私たちにとって、世界がどのように創られたかという事実を聖書から読み取るのではなく、なぜ神様は世界を創られたのかを見ることが大切です。神様が愛情たっぷりに私たちを創造されたことを感じ取ってください。神様は御自分の意志で、「光あれ」と言葉を発して世界を創りました。神様は、私たちの存在を望んだのです。神様が私たちをどれだけ愛し、私たちの存在をどれだけ望んでいるのかを信じて、生きたいと思います。このように考えたら、神様の創られた人間を大切にする心や、神様の創られた自然や環境を保全する心が生まれてきます。災害地や貧しい国にボランティアに出向くことも、エコに心がけて生活することも、身近な家族や友達を大切にすることも、神様の愛する世界を大切にすることです。自分の近くにいる人も周りの物も、会ったことのない人も世界の裏側の自然も、動物も植物も、私たちはキリスト者として、大切にしなければならないのです。そして、この世界を創られた神様を賛美しましょう。神様は素晴らしいと褒め称えましょう。洗礼者ヨハネが誕生した時、ザカリアが最初に発した言葉は、神様を賛美する言葉でした。今日は、神様の創られたすべてのものを見て賛美する時間にしたいと思います。

 
キリスト教の始まり

マルコによる福音 15 33-47節

 

 イエス様をはじめその弟子たちはユダヤ教徒でした。キリスト教が始まったのはイエス様の死と復活の後、教会の誕生は聖霊降臨によってです。聖霊降臨によって弟子たちが宣教を始めたことで、周囲の人々から初めて「キリスト者」と呼ばれるようになったのでした。

今日は、そのイエス様の死と復活の場面を読みました。これこそキリスト教の中心です。しかし、この死と復活の場面を4つの福音書で見比べると、それぞれ描き方が全く異なります。弟子たちにとってイエス様の死の体験、復活の体験はそれぞれ違っていたのです。死と復活については、事実よりもその人個人の体験が重要で、イエス様が実際にどのように亡くなり、どのように復活したのかは問題ではありません。私たちがそれらを通して何を体験し、何を感じるのかが大切です。現代の私たちには、この出来事を知る材料は聖書しかありません。この聖書を通して、私たちはどのような体験をすることができるのでしょうか。聖書を通して死と復活の場面を思い描き、その場に自分もいるようにイメージして祈るという黙想の仕方があります。話の登場人物として、そのイメージの中で実際に自分が動き、話し、触り、見るのです。この祈りを通して、きっと何か体験することができるでしょう。イエス様の死の場面は、劇的な表現が用いられています。大声を出して息を引き取られると、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けてしまいました。これは実際の出来事というより、マルコの用いた象徴的な描写であると考えられています。イエス様の身体を象徴する神殿が崩壊したと解釈する場合もありますが、神殿の垂れ幕とは、神殿の中で私たちの立つ場所と神様のおられる聖所とを隔てていた幕、つまり聖所に入ることができないようにと設けられた幕です。それが避けたということは、聖所に入ることができるようになった、つまりイエス様の死によって、神に至る道が開けたと解釈することもできます。私たちと神様とを隔てているものは何でしょう?そして、イエス様によってその隔たりが取り除かれていますか。また印象的な場面として、百人隊長の姿があげられます。百人隊長とはローマの軍隊の隊長です。つまりユダヤ人にしてみれば異邦人。ユダヤ教の社会では蔑まれていた存在である百人隊長が「本当にこの人は神の子だった」と、信仰告白しています。また、「百人隊長がイエスの方を向いて、側に立っていた」という記述も、特に印象的です。神様に心を向けているのです。「回心」という言葉は、「悔い改める」というより、「心を神に向ける」ことを意味しています。神に心を向けているこの百人隊長こそ、私たちの回心の模範のような気がします。そして、その時に出てくる言葉が信仰告白であったことも、大きな意味があるように思います。人は、回心した時に本当の信仰告白ができるのではないでしょうか。私たちはイエス様に出会った喜び、イエス様を知った時の喜びをもっているはずです。その喜びを人々の前で告白する勇気がありますか?復活の後、イエス様は弟子たちに「全世界に言ってすべてのつくられたものに福音を宣べ伝えなさい」と言われました。これは私たちに対しても言われている言葉です。宣教とは信仰告白であり、宣教はキリスト者の使命です。洗礼を受けたからには、宣教する義務があります。むしろ、もしイエス様に出会ったことを本当に喜んでいるなら、その喜びを人々に伝えたくなるはずなのです。

 今日、もう一つ考えたいことは、「待つ」ということです。イエス様が亡くなって復活するまでに、聖土曜日という沈黙の丸一日があります。亡くなった金曜日のうちに、弟子たちはイエス様を墓に収め、日曜日の朝まで待ち続けたのです。安息日には外を出歩くことも遺体に薬を塗ることも許されず、ただ待ち続けなければなりませんでした。この弟子たちや婦人たちの思いを味わってみてください。そして、自分が何かを待ったことのある経験を思い出してみてください。「待つ」ということは、この次に何かがあるのです。喜ばしいことを期待して待つこともありますし、嫌なことをドキドキしながら待つこともあります。待つ時の気分はどのようですか。そして、イエス様不在のまま日曜日を待つ弟子たちは、どのような気持ちだったでしょうか。それから迎えた日曜日に、イエス様は復活して戻ってきました。その時の喜びはどれほどだったでしょう。その喜びが大きければ大きいほど、復活の喜びを人々に伝えたくて仕方がなくなるのです。宣教はむしろ、自然な心の動きです。自然に内から湧き上がる喜びを、人々に伝えていきたいと思います。

 
イエスの受難

マルコによる福音 14 32-52節

 

 イエス様の受難はゲッセマネでの祈りから始まり、この祈りを通してイエス様は十字架を受ける覚悟をされます。これから受ける苦しみを取り除けて欲しいけれど、自分の願いより、天の御父の望みどおりにしてくださいという祈りです。イエス様は、これから自分が受けるであろう苦しみがどんなものであるかを知っており、それゆえに苦しんでいました。「イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。』」イエス様の苦しみがどれほどであるかが分かります。それは、愛する弟子の裏切り、愛する弟子の離反、人々のののしり、十字架の死、天の御父にも見捨てられたのではという不安と孤独・・・です。イエス様は何のためにこれほどの苦しみを受けられたのでしょう。イエス様は、愛する弟子のために苦しみを耐え忍び、愛する人々のために苦しみを捧げ、愛する御父の望みのために苦しみを受け入れたと考えられます。このように見てみると、イエス様の苦しみは「愛」のためであるとしか考えられません。私たちも、必ず大なり小なり苦しみや悩みを抱えています。その苦しみに意向をつけてみてはどうでしょうか。ある聖人は、自分の苦しみはイエス様の十字架のかけらであると考え、イエス様と苦しみを共にできることを喜びとしました。今自分が抱えている苦しみは、この苦しみを受け入れることで誰か他の人に幸せが届くという信仰をもつことも出来ます。苦しみは何のためか?自分の成長のためかもしれませんし、神様は何かを教え諭そうとしているのかもしれません。様々な意味が考えられるでしょう。自分が、直面している苦しみとどう向き合うかなのでしょう。

今日、もう一つ大切にしたいテーマは、こんな苦しみの中、イエス様は弟子たちに側にいてほしいと望んだことです。イエス様は私たちに、側にいてほしいのです。弟子たちの中から「使徒」を選んだときも同じであったことが思い出されます。使徒を選んだのは、「そばに置くため」でした。それなのに愛する弟子に裏切られ、他の愛するすべての弟子にも見捨てられました。友達や、側にいてほしいと思った人に裏切られる痛みはどれほどでしょう。イエス様はどんな思いで、すべてをされるがままにしたのでしょう。それは想像するしかなく、聖書を祈りながらイエス様の心を感じるしかありません。聖書を黙想しながら、イエス様の心を味わいたいと思います。

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