聖マリアの無原罪教育宣教修道会では、子どもたちや若者たちがキリスト教的教育を通して真の幸福を見つけられるようお手伝いしています。

 

聖書の学び資料

 
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突風を静める
マルコによる福音書 4章 35-41節
 
 この時イエス様と弟子たちのいた湖とは、ガリラヤ湖のことです。ガリラヤ湖は、イスラエルの北部に位置し、ティベリアス湖とも呼ばれていました。イスラエルには死海とガリラヤ湖という二つの大きな湖がありますが、死海は生物がほとんど生息しない死の海であるのに対し、ガリラヤ湖はたくさんの魚や生き物がいる命の湖です。琵琶湖の4分の1という、規模的にはそれほど大きくない湖であっても、砂漠のイスラエルでは貴重な湖であり、人々はその恩恵を受けて生きていました。そのためガリラヤ湖周辺に漁師をしている家が多く、自分の舟を持っている漁師、雇人として漁に出ている人とがいました。弟子のペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネなども漁師であり、ペトロとアンデレの兄弟は自分たちの舟を持っていましたし、ヤコブとヨハネは舟だけでなく雇い人までおり、裕福な漁師だったようです。この4人に限らず、弟子たちのほとんどは、ガリラヤ周辺で活動していましたから、湖には慣れていました、にもかかわらず突風を恐れたというのは、相当の風だったようです。その突風の中、イエス様は艫(とも)の方、つまり舟の後方で眠っていたと書かれていますが、実際に眠っていたかどうかは別として、不安がる弟子たちとは対照的に、安心しきっているイエス様の姿を、マルコはここで描いています。嵐の中、父である神を信頼しきっているイエス様の姿です。現代も含めて、福音書の書かれた時代から、「舟」は教会の代名詞として使われています。「舟」を「教会」、「嵐」を「教会に困難をもたらす世界の荒波」にたとえています。福音書の書かれた時代は、ローマにおける迫害の時代でした。その困難の最中、イエス様はどのような態度であったか、この出来事を通して弟子たちに何を教えたのか、マルコはそれを読者に考えさせようとしているのでしょう。
 そしてイエス様は、風と湖を叱りつけました。イエス様にとって叱りつけるという行動は、いつも敵に対してするものでした。サタン(悪魔)であったり、人に取りつく悪霊であったり、そして今回の嵐は、人間に恐怖心と不信を抱かせる敵でした。弟子たちがイエス様に寄りすがったことによって起こった奇跡です。
 
イエス、洗礼を受ける
マルコによる福音書 1章 9-11節
 
 洗礼者ヨハネは、イエスのはとこです。イエス様より数か月の年上でした。父親は、ユダヤ教の儀式を司る祭司であったがヨハネは祭司にはならず、荒れ野で生きる道を選びました。死海の近くにあるクムランの洞窟周辺では、そのような簡素な生活を送り、水で自らを清めたりしている人々がいました。ヨハネもその人々に倣って荒れ野で簡素に生き、一般の人々にも簡素な生活を勧めさらには水で洗礼を受けることによって罪を悔い改めるよう訴えました。ヨハネの洗礼は特にバプテスマと言われています。キリスト教で行われる洗礼は、頭に水をかけることで、教会の一員になり、イエス・キリストに従う生き方をする決意を表すことです。それに対し、バプテスマとは、罪の悔い改めのしるしであり、全身を水に浸けることで行われます。水の中というのは、「罪」や「死」を意味しているため、水の中で罪が死んで、水から上がることで、罪のない新しい自分に生まれ変わるという意味があります。そのためヨハネのバプテスマを受けるには、まず自分の犯した罪を悔い改めることが重要でした。ユダヤ今日の律法は膨大で、すべてを守り続けることはできません。生活に精一杯の一般の人々は、律法に背いて罪を犯さざるを得なかったために、律法学者たちからは蔑まれていました。そんな律法学者をヨハネは批判し、本当に大切なことを教えたため、彼のもとには多くの人々が集まりました。イエス様もその一人です。そして、罪のなかったイエス様がバプテスマを受けたのは、後にくる十字架の死と復活を意味しているといわれています。また、霊が鳩のように降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声によって、イエス様自身、神様の愛を確認する体験となり、後の使命を果たす力となったのでしょう。
 マルコは、紀元70年代に福音書を書きました。ローマで宣教活動をしていたマルコは、皇帝ネロによる迫害を経験しています。イエス様が十字架の苦しみの中でもこの愛の体験が力となったように、迫害の中でも「あなたはわたしの愛する子」という言葉を思い出し、神様の愛のために信仰を守りぬきなさいと言っているのでしょう。
 
汚れた霊に取りつかれた男を癒やす
マルコによる福音書 1章 21-28節
 
 カファルナウムとは、ガリラヤ湖の北側にある小さな村で、ペトロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブの故郷です。ペトロは結婚しており、その義母もこの村に住んでいました。また、カファルナウムは国境となっていたため、税関があったりローマ兵が多く滞在する村でした。イエス様はしばらくこの村を拠点に活動されるのですが、これはカファルナウムに到着してすぐの頃の話です。その日は、安息日でした。安息日とは、ユダヤでは土曜日のことで、1週間のうち6日間働いた後に休む日として定められており、休むための規定が多く定められていました。料理をしてはいけない、漁に出てはいけない、畑仕事はしてはいけない、何歩以上歩いてはいけない等々。聖書を読んだり祈ったりするのです。イエス様は、その安息日にあえて人を癒やします。安息日は人を癒やすのにふさわしい日であると考えてのことだったのでしょう。
 この会堂で、イエス様は何を教えたのかは書かれていませんが、人々は今まで聞いたこともない話を聞き、驚きます。この「権威」という言葉(ギリシア語:エクスーシア、ふぇぶらいご:シャルタン)は、神様にだけ用いられる語です。マルコは、イエス様は神様であることを表現したかったようです。汚れた霊に取りつかれた男も「神の聖者だ」と叫んでいるように、イエス様の聖性を強調しています。現代では、イエス様は神でもあり人でもあり、人性と神性をもつ二性一人格であると信じていますが、福音書の書かれた時代は、どちらかというとイエス様の神性を強調していました。これらの表現は、その表れであると言えます。
 当時、医学があまり進歩していなかったため、病気はしべて、その人やその人の親、先祖の犯した罪によってもたらされると信じられており、けいれんを起こすような病気や精神障害などは、汚れた霊の仕業であると考えられていました。イエス様がその人の病を、悪例を叱ることで癒されたのは、当時の人々の思想に基づくものです。そして、ここでも悪例に打ち勝つという、イエス様の神としての姿が強調されて描かれています。
 
聖書における神の介入
マタイによる福音書 4章 18-22節
 
 神様が常に私たちに何かを訴えかけているのを、感じていますか?今回読んだ福音箇所では、イエス様が湖のほとりを歩きながら、弟子を呼ばれました。ガリラヤ湖とは、この地方の人々にとっては生活の場です。生物が豊富に生息し、豊かな湖であるガリラヤ湖は、人々の生活を潤す「命の湖」であると同時に、人々にとっては生活の一部でした。そこをイエス様が歩いておられるというのは、深い意味があるように感じます。そんな中、イエス様はペトロとアンデレに目を留めます。神様が介入してきた瞬間です。ペトロとアンデレは、日常の一場面の中で、イエス様の呼びかけを受けました。私たちは誰でも、神様の呼びかけを受けています。この黙想会を通して、自分の「日常」を振り返る時間にしたいと思います。私にとっての「日常」は、どんな場面でしょうか?普段の何気ない生活を思い出してください。そして、神様は「私」の中に入ってきていますか?神様の呼びかけを感じていますか?また、どんな呼びかけを受けていますか?
ペトロとアンデレの場合、「人間をとる漁師になる」という呼びかけを受けました。漁師は、水から魚を引き上げます。聖書において「水」とは、死や罪の状態を意味します。つまり「人間をとる漁師」は、死や罪から人間をすくい上げるのが仕事なのです。漁師であるペトロとアンデレにとって、それはもともとの自分たちの仕事でしたが、その仕事が神様から与えられた召命へと変えられたのです(召命:神の恵みによって神に呼ばれ、特別な使命を与えられること)。私たちは、今の自分の仕事によって、神様からの召命を生きることになるかもしれませんし、今の仕事とは別の道での召命へと招かれているのかもしれません。考えてみましょう。
 最後に、イエス様に従うために捨てるべきものについて考えましょう。持っているものが多いほど、捨てるものが多いのです。ペトロとアンデレは網、つまり仕事を捨てました。金持ちであったヤコブとヨハネは、仕事と家庭を捨てました。しかし、ここで考えたいのは、この弟子たちにとって、捨てたという感覚がないということです。むしろ、もっと素晴らしいものを手に入れました。信仰のために捨てたものはありますか?そして、得た素晴らしいものとは何ですか?分かち合ってください。
 
主の祈り
ルカによる福音 11章、知恵の書11章
 
 今回のテーマは「祈り」です。私たちは普段、どのような祈りをしているでしょうか。旧約聖書の知恵の書を読むと、神様が私たちの存在そのものをどれほど大切にしてくださっているのか、ひしひしと伝わってくるでしょう。これほどまでに神様が私たちのことを大切にしていてくださっているのを念頭に置いて、「主の祈り」について考えると、神様への親しみと神様の私たちへの配慮を感じないでしょうか。私たちが存在しているのは、神様に愛されている証拠なのです。しかも、神様は私たちに「求めなさい」と言われます。私たちが心から祈ることを、神様は望んでおられるのです。
 「主の祈り」は、最初から最後まで神様に何かを願っています。祈りには感謝や賛美などいろいろありますが、あえて「願い」のみで構成されている祈りなのです。「御名が崇められますように」私たち皆が、神様を賛美しますように。「御国が来ますように」私たち皆が、神様の望みに従って生きますように。そして後半は、私たちが幸せに生きられるようにしてくださいと願っています。「糧」とは、生きるために必要なものです。しかし、生きるには食べ物だけではありません。着る物も住む場所も、さらには生きがいや愛情も必要です。それらの生きるために必要な事柄を、日々お与えください。これは、明日のことを思い悩むのではなく、「今日」生きるための「糧」なのです。本当の幸せとは、生活に愛があるかどうかなのかもしれません。愛があれば、他者をゆるすこともできるでしょうし、神様の赦しに、心から慰めを感じるでしょう。そして最後の「誘惑に遭わせないでください」は、神様から離れることなく生きること、それを心から祈ること、求めることが、この「主の祈り」の本質なのかもしれません。
 イエス様は、「このように祈りなさい」と言われました。それは私たちへの配慮なのだと思います。神様は、私たちにとって何が一番良いことなのかをご存知なのです。そんな神様に、私たちはどれほど信頼しているでしょうか。今日は、「主の祈り」を深く味わうことができますように。

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