聖マリアの無原罪教育宣教修道会では、子どもたちや若者たちがキリスト教的教育を通して真の幸福を見つけられるようお手伝いしています。

 

福音の分かち合い

 
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天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない
2015-11-15
マルコによる福音 13章 24-32節
 
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。このみことばの力強さを感じました。知恵の書には、宇宙の素晴らしさを賛美しながら、その宇宙を造られた方の力強さを賛えているのですが、逆に、宇宙の美しさを見たらならば、その宇宙を造られた神様の素晴らしさをも見なさいと、厳しく訴えています。この知恵の書と今日の福音とが繋がっているように思えました。この世界は素晴らしいけど、神様はその世界を大きく超える方です。たとえこの世界が滅びてしまっても、神様のことばは永遠です。これほど力強いみことばはありません。世界には様々な宗教が数え切れないほどあります。その中でキリスト教が一番正しく、最も優れているというのは傲慢なように感じます。でも、私たちは世界の何よりも勝るキリスト教を信じているのです。私たちの中では、たとえ宇宙が滅びてしまっても、神様のみことばは残るのです。それがどんなに素晴らしいことなのかと考えると、やはりキリスト教を信じている私たちは幸せなのだと、つくづく思いました。
 
幸い
2015-11-01
マタイによる福音 5章 1−12節

幸せとは何だろうと考えてしまいます。ルカは「貧しい人々は幸いである」と言っているのですが、マタイはイエス様にあえて「心の貧しい人々は、幸いである」と言わせています。幸せとは、その人の心の持ち方だと思います。どんな状況にあっても、その人が幸せだと思えば、幸せなのです。でも、ここでいう「幸い」とは、それとはちょっと違うもののように思いました。天の国は、心の貧しい人のものであるから、心の貧しい人に対して、「良かったね」というメッセージを送っているように感じます。悲しむ人がいれば慰めてもらえるんだよ、良かったね。迫害され、悪口を言われても、天には大きな報いがあるんだから、喜んでいいんだよ。これこそ、苦しんでいる人々への福音なのだと思います。あなたたちは幸せなんだよと押し付けるのではなく、どんなに苦しくてもこんな恵みがあるんだよと励ましてくれているように感じました。
 
ダビデの子よ、わたしを憐れんでください
2015-10-25
マルコによる福音 10章 46−52節

バルティマイは、イエス様のお通りを聞くと叫び始めました。「わたしを憐れんでください」と、必死の思いが伝わってきます。別の癒し物語では、ある足の萎えた人がイエス様に「良くなりたいか。癒されたいか。」と聞かれても、その質問には答えず、人々が自分に構ってくれないという不満をぶちまけただけで、癒されたい気持ちの伝わってこない話も描かれているのですが、このバルティマイはそれとは対照的で、今の状態ではダメだと、必死に自分の殻を破り、成長しようという姿のように思えました。当時、障害者は、どんなに裕福な家庭であっても物乞いをするのが一般的でした。物乞いが仕事なのです。バルティマイはそのような仕事が与えられ満足することもできたでしょうが、それよりも今の状態から抜け出すことを選びました。私たちも、今の状態で満足してしまって、新たなことに挑戦したり、新たな自分へと成長しようと努力しているかと、反省させられます。バルティマイの必死の思いはイエス様に届き、癒しという恵みが与えられるだけでなく、イエス様に従うという最高の道をも与えられました。自分は何から立ち上がらなければならないかを、いつも考えていきたいです。
 
仕えるために来た
2015-10-18
マルコによる福音 10章 35−45節

偉くなりたいならば皆に仕えなさい、一番上になりたいならばすべての人の下僕になりなさい、とイエス様は言いながら、ご自分は仕えられるためではなく仕えるために来たと、イエス様は、偉くなりたいから皆に支えようとなさっているのでしょうか。とてもそうだとは思えません。この福音を読み、弟子たちの霊的成長が段階を踏んで深まっていく様子を表しているように感じました。初めは、ヤコブとヨハネが王の右と左に座り権力を望みましたが、そのように偉くなりたいなら皆に仕えなさいと言われ、そして、最終的にイエス様のように、偉くなりたいから仕えるのではなく、仕えるためにここにいるのだと言う謙遜を身につけていくのだと思いました。王であるイエス様の横に座るということはイエス様のように生きるということなのでしょう。ヤコブとヨハネは復活したイエス様と出会った後、本当に皆に仕えるイエス様と同じ生き方をしていきます。ただ偉くなりたい人、偉くなりたいために人に仕える人、仕えるためにここにいるのだという謙遜を身につけた人、この3種類の人の姿をこの福音で見ながら、仕えるため、自分の命を献げるために存在することの難しさとともに、そのために来てくださったイエス様に対する感謝の気持ちを感じました。
 
イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた
2015-10-11
マルコによる福音 10章 17−30節

「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」。好きなことばの一つです。イエス様に質問を投げかけたこの若い「ある人」の、あまりにも幼稚な考えに、ただ呆れて見たのではなく、慈しみの目で見つめ、慈しんで言われました。マルコの表現によるイエス様の暖かさが、ひしひしと伝わってきます。「殺人はダメ、浮気はダメ、泥棒はダメ、嘘はつくな、強盗はダメ、両親を敬え」。このような決まりごとは、ただの道徳行為であり、良心に従うという当然の行為です。ただ、言われた掟を守っているだけは、未熟な信仰です。本当にイエス様に従って、キリスト者として生きたいのなら、自分の守っている掟ではなく、回りに目を向けなさい、そこには自分のするべきことがたくさんあるのだと、イエス様は言っているようです。
当時、金持ちは神様に祝福された存在であり、裕福であればあるほど、神の国に入れるのだと信じられていました。この人は、掟はすべて守っているし、当然のように永遠の命を受け継いで、神の国に入れるものと思っていたのでしょう。だから、「持ち物を売り払い、貧しい人に施しなさい」「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」というイエス様の言葉に、皆驚きました。私たちも、自分は良いことをしていると思い込んでしまっていないか、反省させられます。そのような時、自分のしていることではなく、回りに目を向けて、自分が何をしなければいけないのかを、常に意識しなければいけないのだと思いました。

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