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聖書の学び資料

苦しむ人は癒される

マルコによる福音書 2章 18-28節

 

当時、イスラエルの人々にとって断食とは、まじめであることの印でした。断食とは食を断つこと、つまり欲望に打ち勝つための行動です。ファリサイ派の人々は断食することで身が清められると考えていたため、週に2度も行っていました。しかし、それらが形式的なものになってしまったら、あるいは断食しなければ神に近づけない、断食すれば神に認められ天の国へ行けると考えるならば、自分の力で神に近づくという傲慢な思いへと引きずられてしまいます。でも神様との出会いは、人間が頑張ってできるものではなく、恵みなのです。イエス様は言います。形式的な断食であれば、する必要はありません。喜びの時であれば尚更です。それよりも、ただの食を断つ行為ではなく、心からの断食、つまり神様に心を向けるために断つべき欲望を退けることの方がよっぽど大切です、と。これまで12章を読みながら、誘惑について、執着について考えてきました。ここでは欲望について考えてみましょう。過度に求めてしまう何かがありますか?人間には食欲をはじめ、人の上に立ちたいという権力欲、あれが欲しいという物欲など、たくさんの欲の可能性があります。確かに、食欲がなければ食べる必要を感じないというように、人間にとって欲望をもつということは生きる上で重要です。しかし、行き過ぎると何事も望ましくありません。イエス様は、形式的な断食でなく、望ましくない欲を断つことが大切であると言っているのです。

 次に安息日についてです。安息日とは、もともとは働き詰めだったイスラエルの民を、いたわるための掟でした。1週間のうち6日間だけ働けば、残りの1日は休んで神様の言葉を味わい、祈りのひと時をもちましょう、というものだったのですが、時を経るに従って形式的になり、してはいけない物事が多く定められるようになってしまったのです。しかしイエス様は、そんな形式的な掟よりも愛、思いやりを重視します。お腹を空かせている弟子がいれば、ファリサイ派の人々の批判からその弟子を庇い、ファリサイ派やヘロデ派の人々から利用されている人がいれば、安息日であろうと、その人の苦しみを和らげるために病気を癒します。法や規則は、なくてはならないものです。規則とは、人々を縛るためのものではなく、大勢の人が共に生きるにあたって、皆が気持ちよく生活できるようにとつくられるルールです。周りの人と自分のために守るのです。しかし、規則だけにとらわれてしまい、本当に大切なものが見えなくなってしまっては、その規則の意味もなくなってしまいます。自分は何のために規則を守りますか。日曜毎に教会に行くのはなぜですか。会社での決まりごとや学則、町内会の規則や地域でのルール、国の法律など、これらの中に、誰かに対する思いやりを感じますか。

 最後に、病気に苦しむ大勢の人々が、イエス様のところに集まってきた場面です。彼らは皆、癒し、慰めを求めて集まってきました。慰めを求めている人は、悲しみがなければ慰めを受けることができません。癒しを求めている人は、苦しみがなければ癒されることもありません。そのように考えると、苦しみや悲しみは恵みであるといえます。しかし、実際に苦しんでいる人にとって、そのような言葉は偽善にしか聞こえないでしょう。イエス様はそれを、偽善に終わらせないで、その人ひとりひとりに適した方法で癒しを実現させます。そして、悩む人を一切拒みません。だからこそ、これほどの人が押し寄せたのです。教会も、そのような存在でありたいものです。私たちは、悩む人々を受け入れる立場にもなれば、自分が悩みを抱えて他の人にすがる存在にもなります。自分にとって、あるいは他の人にとっての暖かい癒しの場についても考えてみましょう。

イエスに呼ばれた弟子

マルコによる福音書 1章 16-20節、2章 13-17節
 
イエス様が一番初めに選んで呼んだ人は、普通の漁師でした。「人間をとる漁師にしよう」と呼びかけ、漁師よりもずっとやりがいのある、人々を罪から救うという仕事に招待します。イエス様は、共に働く仲間を探しました。ご自分一人ですることもできましたが、あえて仲間を求めたのです。それは「共にする」ということの大切さを意味しています。人は自分一人で何もかも抱え込んでしまっては、いつか崩れるでしょう。誰かと支えあってこそ、生きていけます。共に働く共同体があることは、本当に幸せなことです。修道生活は、その生き方を目指した人々が集まって生活することが第一の目的となっています。同じように家庭も、支えあって生きている「家族」という人の集まりであり、教会共同体は、信仰で結ばれて、特定の日、特定の時間に集まって作り上げていきます。職場でも大学でも同じです。私たちは神様から呼ばれて集められ、神様から与えられた使命を果たすために、共に支えあって生きているのです。そして、ペトロとアンデレは、イエス様に従うために網を捨てました。ヤコブとヨハネは、父と雇い人と舟を捨てました。それを自分に置き換えて考えてみてください。物を持つことは悪いことではありません。その物に執着してしまうことで盲目になり、何が大切か分からなくなってしまうことがいけないのです。自分にとって、自分の召命を生きるため、使命を果たすため、イエス様に従うために、捨てるべき執着は何でしょう。物ですか?人ですか?仕事ですか?地位・立場ですか?時間ですか?・・・

次に徴税人のレビが呼ばれました。徴税人とは当時、その仕事ゆえに罪人だと蔑まれ、疎まれていた存在です。イエス様はそのレビをあえて招きます。レビにとって、癒しが必要だったからです。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。」私たちは、しばしば自分のいたらなさのために心を痛めることがあります。周囲からの不当な仕打ちに落ち込むこともあります。そのような時にこそ、イエス様の癒しが必要です。レビはイエス様と出会って、自分の全存在が、ありのままのすべてが受け入れられている体験をします。聖書を黙想することにより、私たちも、その体験を味わってみましょう。そして、レビは「立ち上がり」ます。「立ち上がる」とは、新たな出発を意味しています。今までの自分にこだわっていつまでも同じ状態にとどまっていたり、やりたいことや目標などがあってもそれを実行に移さなかったり、新しい生活への恐れから今までの生活にしがみついたり。そんな状態から立ち上がって、レビは、イエス様の方へと向かって歩き始めます。では、今の自分にとって、どんな状態から「立ち上がる」ことが求められているのでしょうか。

このようにして呼ばれて集まった多くの弟子たちですが、その中で特別に、イエス様のそばにいるために呼ばれた弟子がいました。それが12使徒です。使徒とは、使命を与えられた者、派遣された者を意味していますが、メンバーを見ると、裏切り者と言われるユダをはじめ、政治的過激派・熱心党のシモン、罪人と呼ばれていたマタイや教育をほとんど受けていない漁師など、“素晴らしい人”というような人たちではありませんでした。当時からすれば普通の人、つまり、ここにいる私たちのような存在です。イエス様はそんな私たちに、そばにいて欲しいと思い、私たちを信頼して使命を与えて宣教へと派遣し、人々に心と体の癒しをもたらすために働くよう望んでおられます。青年は、これからどんな道に進み、どんな召命を生きるかを探す時期です。結婚生活への召命、独身生活への召命、奉献生活への召命など、自分の道を見つけた人は、その召命において、神様は自分にどんな使命を与えようとなさっているのか、祈りのうちに識別していくことが求められています。

福音(幸せ)の始まり

 マルコによる福音書 1章 1-15節
 

福音書は、他の書物と違って、神の子であるイエス・キリストの福音(喜びの便り)を伝えています。マルコにとっての伝えるべき福音は、イエス様の洗礼から始まっています。

洗礼とは、キリスト教徒にとっては教会の一員になることと、イエス・キリストに従う生き方をする決意の表れです。それに対してバプテスマというヨハネの洗礼は、罪の悔い改めのしるしであり、全身を水に浸けることで、今まで犯した罪が死に、水から上がったとき新しく生まれ変わることを意味していました。そのためには、まず罪を悔い改めてから洗礼を受けることが重要でした。しかし、その洗礼をイエス様は受けられました。イエス様は罪などなかったはずなのに、です。それは、後にくる十字架の死と復活を意味しているのでしょう。と同時に、霊が鳩のように降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声によって、イエス様自身、神様の愛を確認する体験となりました。この体験は、イエス様にとってずっと、使命を果たす力となったことでしょう。自分の歩むべき道を進むことは、イエス様も私たちも大変なことです。4月は新生活の始まる季節ですが、5月になって新生活に慣れると同時に、様々な課題の見えてくる時期ではないでしょうか。そのようなとき、イエス様のこの体験を思い出してみましょう。「あなたはわたしの愛する子・・・」という天の声は、私たち一人ひとりにもかけられている言葉なのです。

次に、イエス様は40日間、荒野に行き、サタン(悪魔)から誘惑を受けられます。ここで言う40日という数字は、「長い期間」を表す数を意味しており、実際に40日間であったわけではありません。イスラエルでは、悔い改めの期間を、よく40という数字で表しています。イエス様は長い期間、私たちと同じように誘惑と戦われたのです。私たちは誘惑を受けるとき、必ず選択を迫られます。朝、目覚ましが鳴ったとき、すぐ布団から出て起きるか、もう少し寝たいという誘惑に負けるかの選択に始まり、大学の先生に挨拶をするか、苦手な上司に笑顔を向けるか、大学では何を学ぶか、将来どんな仕事に就くかなど、私たちは選択の連続を生きています。イエス様はこのような経験を経て、最終的に、福音を宣教するという道を選びました。イエス様は人々の幸せのために働き始めます。多くの病人を癒し、汚れた霊に取りつかれた人を癒します。「汚れた霊に取りつかれた」と昔の人々は考えていましたが、これはたぶん、てんかん患者のことでしょう。当時イスラエルでは、病気は、その人、あるいはその人の先祖の罪のためにもたらされるのだと考えられていました。イエス様は、その病気を癒すことにより、体の癒しだけでなく、「あなたの罪は赦されているのですよ」と、心の癒しをも与えていたのです。今の私たちに置き換えると、ただ募金活動するのではない、ただ義務的に親切にするのではない、自分の目の前にいる“あなた”を、私は大切に思っているのだよという、気持ちを表すことが大切なのでしょう。近年、自分は誰からも相手にされていないと苦しんでいる人々、自分は親から愛されていないのだと自暴自棄になっている子どもたち、家族から見捨てられたご老人や孤独のうちに亡くなる人々など、多くの人が心に傷を負っています。イエス様は今もなお、このような人々が心の癒しを受け、幸せがもたらされるようにと働くことを望んでおられます。

 


聖マリアの無原罪教育宣教修道会

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