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聖書の学び資料

誤解されるイエス

マルコによる福音書 8章 14-21節、27-30節
                      

 イエス様は人々や弟子たちに多くのことを語られましたが、その本当の意味は、人々にはほとんど伝わっていませんでした。弟子たちも例外ではありません。この舟でのやりとりでも、ファリサイ派のような表面主義、ヘロデのような権力主義を戒めているのに、パンが足りないことで頭がいっぱいの弟子たちは、異なった意味に解釈してしまいます。何かに心が囚われていると、耳に入る言葉も、見える人々の言動も、心に感じる事柄も、本来の意味とは全く違ったものになってしまいます。まず、この出来事を通して、今、自分の心は何でいっぱいになっているのかを振り返りたいと思います。仕事の内容ですか?大学での勉強のことですか?教会での活動ですか?自分の抱えている悩みですか?恋愛ですか?人間関係ですか?将来のことですか?過去の失敗ですか?明日の計画ですか?そんな中で、自分の思いから少し離れて、神様が自分をどう見ているかを考えてみましょう。神様の目から見て、本当に大切なことは何でしょうか?

 次に、ペトロの信仰告白についてみましたが、人々がイエス様をどう思っているかの質問は、弟子たちの答えを引き出すための前置きでした。イエス様の「それでは、あなたはどう思っているのか」との弟子たちへの質問は、今、この自分にも問われています。自分にとってイエス様はどんな存在ですか?信者として、どう答えますか?信者でない人は、様々な場でイエス様に触れています。イエス様をどのように捉えていますか?自分を教え導く方、大好きな存在、いつもそばで見守ってくださる方、困ったときは助けてくださる方など・・・。ペトロは「メシア(救い主)」と答えましたが、ペトロの思い描く救い主の姿とイエス様の言う救い主の姿は、全く違います。ペトロをはじめユダヤの人々にとっての救い主とは、ローマ帝国からイスラエルを解放し救ってくれる政治的指導者であったのに対し、イエス様は罪から人類を救うという救い主像を示しました。神学的には、人々から捨てられ殺されることで、罪のために地獄で苦しんでいる人々の所へ行き、後に復活するとき、その人々を連れて一緒に天国へ行く、という救い主です。しかし、イエス様こそイスラエルをローマから解放してくれる英雄であると思っていた弟子は、その英雄がなぜ祭司長たちから殺されなければならないのか理解できず、そんなことがあってはならないと、ペトロは思ったのでしょう。イエス様は、そんなペトロを叱ります。「神のことを思わず、人間のことを思っている」とは、ローマからの解放という政治的思想による救い主の姿、人々から英雄扱いされるイエス様の姿を望むという、人間的権力を重視しているペトロの心のことです。パンのことで頭がいっぱいになっていた先ほどの出来事と同じで、神様のことを考えられなくなっています。神様のことを考えるためには、心を空っぽにしなければならないのでしょう。悩み事があっても、それにとらわれない心、考えることがたくさんあっても、いつでも神様に目を向けることのできる心の余裕、将来への不安があっても神様に信頼することのできる信仰、これらこそ、イエス様のもたらされた救いで、神様の望むことです。これらの大切さをいつも味わっていけたらと思います。

信仰、信じること

マルコによる福音 7章 1-13節、24-30節

 

私たちは食べ物を食べて生きています。生きるためには食べなければいけないことから、食べ物は生命そのものであると、ユダヤの人々は考えていました。生命は神さまからいただいたものです。食べ物=生命=神様からの賜物とすれば、食べ物に触れる時は身も心もきれいでなければならないと人々は考え、手を洗うという動作で身体と心をきれいにしていました。しかし、手を洗ったから心が清くなるのではありませんし、手が汚くても心は清いこともあります。イエス様は、人々が目に見える動作や儀式的なことを重視し、本当に大切な心の状態に目を向けなくなっていることを嘆きました。手を洗うことを重視するのではなく、食べ物を食べて神さまの恵みを感じるために、心を整えて生命である食べ物に触れること、つまり内面を大切にしましょうと言うのです。信心深く聖堂で長時間祈ることも大切ですが、そのときの心の中を覗いてみましょう。何のために祈っているのですか。私たちは目に見えない信仰や心の中よりも、目に見える形で人を判断しがちです。聖堂で長時間祈っている人を見れば、信心深いと思ったり、いつでも笑顔でいる人は優しい人であると思ったり。目に見えない心の清さや信仰は、目に見えるもので図ることが手っ取り早いです。でも実際のところ、目に見えないものは、目に見えるもので図ることはできないのです。もちろん、形式的なことや表面的なもの、儀式や掟、規則は大切です。信仰を支えるため、他者への愛情を深めるため、互いの関係を平和に保つためには必要なものです。そして、キリストを信じているからこそ、教会の規則を守ります。しかしこのような規則や掟、形式的なものは、信仰を支えるため、愛情を深めるため、関係を平和に保つための手段に過ぎないことを忘れないようにしましょう。

これとは対照的な話が、ティルス地方で出会ったシリア・フェニキアの女性です。ギリシア人であるということは、ユダヤの人々が差別していた異邦人です。ユダヤ人の大切にしている掟や信仰を表す行いは一切していません。食事前に手を清めるとか市場から帰ったら身を清めるなどは、おそらくしていなかったでしょう。ユダヤ人からすれば、神様に従っていない人、信仰をもっていない人です。でも、たとえ信仰の表れである掟を守っていなくても、神様のことを誰よりも信じていました。そしてイエス様の助けを確信して、イエス様にすがっていく謙虚さをもっていました。イエス様は、そんな謙虚さや、ひたむきな心を求めます。シリア・フェニキアの女性は、イエス様にすがることで信仰を表し、深めました。今は待降節、クリスマスの準備の期間です。教会では黙想会、一般社会ではクリスマスのさまざまな行事が行われ、イエス様の誕生を、知ってか知らずか喜んでいます。そんな中、ちょっと立ち止まって考えて見ましょう。ただの行事で終わっていないか、楽しい行事の中に信仰を見出せるか、考えてみてください。信仰を深める手段として、ある人は聖書を読むでしょう、ある人は長時間祈るでしょう、ある人は活動を通して信仰を深めます。その時々違った手段がありますし、複数の手段を用いることもあります。これからの人生、さまざまな出会いや出来事があり、困難にぶつかったり大きな喜びを味わったりするでしょう。これらの中に、揺るがない信仰を保つよう、表面的なものの助けを借りて内面的なものを普段から意識していましょう。困難にぶつかったとき信仰が助けになり、喜びを味わったときには信仰がその喜びを倍増させるでしょう。

ナザレのイエス

マルコによる福音 6章 1-6節、30-44節

 

 イエス様は宣教の旅に出てからも、何回か、故郷であるナザレに戻っています。ナザレの人々は、イエス様の評判は聞いており、イエス様の帰郷を歓迎し、安息日に会堂で教えるほどでした。人々は、イエス様の話すことば一つ一つに驚いたようです。しかしその驚きは、感動ではなく疑いへと傾いていきます。あれは貧しい大工の息子じゃないか、しかもマリアの結婚前にできた私生児だ、特に勉強したわけでもなく、偉い先生の弟子でもないのに、なぜ我々に教えるのか。つい最近まで一緒に生活していたイエスを、自分たちを教える先生として見ることができなくなった人々は、イエス様を批判し始めます。当時の多くの師は、偉い先生の言葉や昔の先生の解釈を人々に教えていましたが、イエス様は、誰かの引用ではなく、完全に自分の言葉で人々に教えたのです。イエス様が有名な偉い先生のもとで学んでいたならば、人々の反応も違ったでしょう。人間の先入観が妨げとなったケースです。これを、ただの人間のことばとして聞き過すか、神のことばとして心に入れるかは、聞く人次第です。子どもの頃から信者で、あるいは学校で何度も話を聞いて、聖書に慣れっこになってしまって読みもしないか、自ら聖書を開き、電車の中でも一日1章でも読んで、その日の心の糧にするかは、自分次第です。また、信者でない人が初めて聖書を開いたときも、よく分からない言葉や内容の中に、神様からのメッセージを読み取るのも、やはり自分次第です。

 それから、イエス様は12人を宣教へと派遣します。この12人が戻ってきた時、自分たちの行なったことや教えたことを残らず報告したと、弟子たちの興奮が見られることから、この派遣は成功だったようです。故郷ナザレでは受け入れられなかったことが、付近の村々では受け入れられたのです。ナザレでのように先入観がないために、人々のうちに純粋な感動が湧き上がりました。そして、このような宣教旅行において、イエス様は必ず、一人ではなく二人で行くよう促します。どんなに素晴らしいことよりも、誰かと協力してすることの方が神様にとっては嬉しいことなのです。それから、食料もカバンも財布も着替えも何も持たないで行く旅行。それでも神様は備えてくださるという信頼。これは、何もしなくても神様が何とかしてくれるという怠けた考えではありません。イエス様は、子どもや貧しい人を特に大切にします。子どものようにならなければ天国に入れないとまで言っています。それはわざと幼稚に振舞うことではなく、小さな子どもは自分では何もできないために大人にすべてを委ねるのと同じに、神様にすべてを委ねる謙虚さをもちなさいということです。貧しい人も同じです。何も持っていないから、神様に頼るしかないのです。この宣教旅行で、弟子たちはそのような貧しさの体験から、謙虚に神様に委ねることでいただく恵みを経験したのでしょう。

 最後に、パンの奇跡です。この話はよく、パンの増加の奇跡と言われますが、パンが増えたとはどこにも書いてありません。初めにパン5つと魚2匹があって、5000人が食べて満腹したと書いてあるだけです。そのことから、イエス様の働きかけによって人々が自分の持っていたパンを出し合って分かち合ったことが奇跡だ、と考える人も多くいます。実際には、本当にパンが増えたのか、実はパンがたくさんあって分かち合っただけなのかは、分かりません。でもここで言えるのは、この出来事を通して人々が感動し、救いの到来を感じたことです。さらには、人々が食べ終わった後に、わざわざ残ったパンの屑を集め、その籠の数まで数え、この屑の重要性を強調しています。一見、不要と思えるようなものであっても、神様の前には重要な存在なのです。屑が12の籠にもなって、イエス様の奇跡の素晴らしさを強調する、しかも12の数字の意味は「全世界」であることから、イエス様の素晴らしさは、パン屑のおかげで全世界にまで染み渡ることを伝えています。このパン屑の働きの大きさを喜びましょう。社会から排除されている人ほど、神様の前には重要なのです。

奇跡

マルコによる福音書 5章 1-20節、21-34節

 

 奇跡とは、ただの不思議な出来事ではありません。不思議な出来事に、人々の心の動きや感動、神への賛美があって、はじめて奇跡と言えます。一郎が打ったホームランが奇跡と言うのは、他の人では考えられないようなホームランに、人々が感動するからです。不治の病が治って奇跡と言うのは、もうダメだと思っていたのに治り、神様の素晴らしさに驚き、感謝の心が沸き上がってくるからです。聖書に出てくる奇跡物語の多くは、「神を賛美した」とあります。汚れた霊に取りつかれたゲラサの人は、「一緒に行きたい」と言ってイエス様に従う決意をすることで、癒していただいた喜びを表していますし、イエス様の旅に加わらなくても、この出来事を人々に伝えることで、実際にイエス様に従っています。これほどの心の動きは、やはり奇跡なのです。そして、奇跡が起きた時に最も大切なことは、その奇跡を通して救われる人がいることです。では私たちは、イエス様と自分との間には、どんな奇跡があったのでしょう?イエス様に従いたいという気持ちはありますか?どのようにイエス様(キリスト教)と出会って、なぜこの「聖書の学び」へと足を向けたのでしょう?

 聖書は、歴史書ではありません。ここに書かれていることが実際に起こったことなのかは、問題ではないのです。聖書をただの物語として読むこともできますし、道徳書として読むことも、また教養のために読むこともできます。でも、「聖書の学び」に参加している私たちは、あえて、信仰の目で読みましょう。今、自分の課題となっていることや自分が乗り越えなければならない障害はありますか?それを、このゲラサの人に取り付いていた悪霊レギオンに例えて、イエス様によって、自分はそのレギオンから解き放たれるのです。障害を乗り越えた喜びはどのようでしょうか?このゲラサの人の今後の人生は、どのようだったでしょうか?私たちはそのように、イエス様に従って生きることができるでしょうか?自分にとって、イエス様に従うとは、どういうことでしょうか?今ある自分の状況の中で、キリスト信者として、あるいはキリストを知る者として、どのようにイエス様に従っていきますか?

 次の奇跡は、出血の止まらない女性が癒された話ですが、当時、血が出ている人は汚れていると考えられ、その人は人前に出ることができませんでした。誰にも触れても触れられてもいけないのです。もし誰かが彼女に触れたなら、その人はその日一日汚れた人になり、衣服を洗い、水を浴びて清めの行いをしなければなりませんでした。そんな人が、街中に来て、人ごみに紛れることが、どれほどの勇気であったか。そして、どのような思いでイエス様に触れたのか。「清い」とは、ただの清潔を意味するのではなく、神様のために取り分けられ、神様のためのものになることを意味しています。つまり、清くない、汚れているということは、神様から離れた状態なのです。この女の人は、どれほど恥ずかしい思いで生きていたのでしょう。どんなに誠実に生きていても、病気である限り、汚らわしい存在として生きなければならなかったのです。神様からも離れ、人々からも隔離されて生きるこの女性の孤独を想像してみてください。自分も含め、身近にそのような孤独に陥っている人はいますか?

 この奇跡物語でもう一つ注目したい点は、女性がイエス様の服に触れた途端、イエス様の意思とは別に病気が癒されたことです。イエス様の旅の目的は宣教です。イエス様の教えを人々に伝え、神の国、つまり神様を中心にした生き方を広めることが宣教です。神様の望みは人々の幸せですから、その人の最も必要としているニーズに応えることも重要です。私たちは慈善事業をしたり、人々に親切にしたりします。でも、自分の思いで動くのではなく、また自己満足のためにするのではなく、イエス様のように自然にそのような行いが、溢れ出るようになりたいです。イエス様がこの女性を救ったのではなく、「あなたの信仰があなたを救った」と言えるほど自然に。

たとえ話

マルコによる福音書 4章 1-20節、26-32節

 

 たとえ話とは、話す人のメッセージや思いが詰まっています。今回のイエス様は、たとえ話を通して、「みことばを聞きなさい」ということを強調しています。灯火のたとえは、燭台の上に置くランプを何にたとえているかにより、メッセージは異なります。みことばにたとえているのだとしたら、よく見える所に置く=よく聞きなさい。イエス様にたとえているのだとしたら、燭台 = 十字架。十字架によって、今まで弟子たちが理解できなかったイエス様のメッセージが明らかにされ、それが人々に広まるということを表しているのでしょう。あるいは、灯火を私たちの働きにたとえているのだとしたら、それは、神様のために精一杯働き、人々に幸せをもたらしなさいと言っているのでしょう。このたとえ話を読むときの自分の心の状態や置かれた状況により、汲み取るメッセージは異なります。今、自分はこの例え話を、どのようなメッセージで読みたいですか。

 「種を蒔く人のたとえ」も同じです。自分の心は「道端」か「石だらけ」か「茨の中」か「良い土地」か。あるいはすべてが混在しているか。迫害の時代を生きていたマルコは、皇帝ネロの迫害に耐えかねてキリストへの信仰を捨ててしまいそうになっている人々にあてて、この福音を書きました。では、今の私たちにとっての迫害とは、どのようなものでしょう。キリストに従う妨げとなるものがありますか。それは自分の心の問題でしょうか。他の人や出来事のために生じる妨げでしょうか。しかし、このたとえ話は、どんな妨げにあっても信仰を守りぬく強さをもっていれば、何十倍もの実りがもたらされるということではありません。ここでもやはり、「聞く耳のある者は聞きなさい」と強調されています。説明では、種をみことば、神様の言葉にたとえているのだと書かれています。つまり、人間の強さ弱さにかかわらず、神様が私たちに訴えかけているメッセージに、とにかく耳を傾けなさいということです。鳥が来て食べてしまう道端であっても、石だらけのところであっても、茨の中にあっても、神様の言葉に耳を傾ける心さえあれば、多少なりとも実は結ぶのです。人は誰でも大なり小なりの苦しみや悩みを抱え、弱さをもっています。どんな時でも何が起こっても、信仰を守りぬくこと、神様のためにすべてを投げ打って生き続けることは容易ではありません。そのような弱さや苦しみを抱えながら、それでも神様の言葉に耳を傾けて生きることこそ、神様の望んでおられることです。

 最後に「成長する種」と「からし種」のたとえは、神の国についてを語っています。神の国とは天国のことではあるのですが、当時の人々にとって、ローマから解放されて自分たちだけの独立した国をつくることが最大の目標であり、それこそ神の国であると考えていました。自分たちを支配するのは、ローマではなく神様であるとしたため、自分たちのつくる独立国を「神の国」と呼びました。つまり「神の国」とは、神様の支配する国なのです。私たちに置き換えると、神様を中心におくる生活が「神の国」です。生活の思い煩いに支配されてしまうのではなく、友達との付き合いのために神様のことがおろそかになるのではなく、また、自分のしたいことを何よりも優先するのではなく、神様ゆえに生活の悩みが生じ、神様のために友達と付き合い、神様が望むから自分のしたいことをするのです。自分の夢の実現に向けて勉強するのも神様のため、毎日会社で働くのも神様のため、友達と遊ぶのも神様のため、食事をするのも神様のため、眠るのも神様のため。このように「神の国」を生きると、どんなに悩みがあっても、喜びがこみ上げてこないでしょうか。「この悩みは神様のため」と。そしてこのたとえ話は、このような「神の国」は、知らない間に大きく成長するのだと言っています。人間の力ではなく、神様がこのような喜びを心の中に育ててくれます。「神の国」を生きれば、喜びは徹底して大きくなっていくのです。

聖マリアの無原罪教育宣教修道会

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