聖書の学び資料
愛とゆるし

幸と不幸

イエスの系図・アブラハム
ルカによる福音3章、創世記12章
聖書にはイエス様の系図が、マタイによる福音書とルカによる福音書の2箇所で記されています。不思議なことに、それぞれ全く異なる系図が描かれています。系図に登場する人物が、全く異なるのです。共通して出てくる名前もといったら、ダビデとアブラハム、イサク、ヤコブ、ユダくらいです。マリア様経由の系図とヨセフ様経由の系図との違いだとする説もありますが、ここでは細かいことは省略します。
まずルカ福音では、イエス様が公生活を始める前の部分で系図が描かれており、その初めには「イエスはヨセフの子と思われていた」との記述があります。イエス様は神の子であり、実際はヨセフは養父としての父親です。ルカは全体的に、イエス様は神であることを強調して書いているため、この一言で、イエス様は神の子であることを表現しています。また、系図の最後の「そして神に至る」という言葉からも、それをうかがい知ることができます。さらには、ルカ版系図ではイエスからアダムまでさかのぼるということにも意図が含まれています。アダムとは罪の源泉です。これは、「罪に負けたアダムと罪に打ち勝ったイエス」ということで、アダムによってもたらされた罪の重荷から人類を解放する救い主を表しているのです。系図とは、神様の計画の歴史です。アダムから救い主の誕生までの歴史や神の導き、み摂理を、この系図から読み取ることができます。今日は、この救いの歴史を自分自身に置き換えてみたいと思います。私たちは皆、救いの歴史をもっています。現在の自分に至るまでの歴史です。ここに至るまでに、様々な出会いを経験しました。「この出会い」がなければ今の自分はなかっただろう、という経験はありませんか?あるいは「この出会い」がなければ「この出会い」はなかった、というように、数珠繋ぎになっている「出会い」を感じませんか?どの出会いも、神様の導きがあります。それを味わってみましょう。年度の終わりにあたり、自分の今までの出会いを振り返る時間にしたいと思います。
さて、この系図の中で重要な人物がいくつか出てきますが、今日はその中でもアブラハムについて読んでみました。アブラハムは「信仰の父」と呼ばれています。信仰を試される出来事が何度もありましたが、信頼のうちにそれらすべてを乗り越えました。「アブラハム」という名前は、「多くの者の父」という意味ですが、神様から名前を変えられる前は「アブラハム」ではなく、「神なる父は高くいます」という意味の「アブラム」と呼ばれていました。名前は、その人自身を表しています。アブラムは「神なる父は天にいらっしゃる」という信仰宣言をし、アブラハムに変えられ、「多くの者の父」となる約束を神様としました。名前を変えるということは、その人自身も変わらなければならないのです。キリスト信者の場合、洗礼を受けるとき、新しい名前を頂きます。この聖人のように生きようという決心、このように生きたいという希望が込められた名前です。今日は、自分の名前についても分かち合ってください。自分の名前も洗礼名も、大切にしたいと思います。
今日読んだアブラハムの話で大切なことが、もう一つあります。「契約」についてです。ここでは、神様はアブラハムを「大いなる国民」にすると約束をし、契約を立てます。聖書の中では、神と人間との関係は、この契約によって成り立っています。神様は必ず約束を守ってくださいます。まず、その信仰はありますか?旧約聖書における「契約」は、ユダヤ民族に対するもので、神の言葉を守っていれば救われるという約束です。それに対し新約聖書における「契約」は、全人類に対するものですが、イエスを救い主であると信じていれば救われるという約束なのです。私たちは「新約」を生きています。自分にとっての「救い」とは、何でしょう?イエス様を信じなければ救われない、ということではありません。では、「救い」とは何でしょう?自分は、何から救われたいと思っていますか?あるいは、イエス様は、私たちの何を救ってくださったのでしょう?この問いは、もしかしたら一生をかけて深めていくものなのかもしれません。

少年イエス・バベルの塔
今日は、理解できないことを心に納めて思い巡らす姿と、分裂して散っていく姿とを対比してみました。まず、分裂して散っていく姿は、バベルの塔の話で描かれています。ここでは人間の愚かさに言及し、皮肉っています。メソポタミア文明であるバビロニアは劣り、イスラエルは優れていることを前提とした皮肉です。何が愚かであるのかというと、塔の建築の目的でした。人々は自分自身のために塔を建てました。自分たちが有名になるため、そして自分たちがここに留まり散らされることのないように、というのが建築の目的でした。ここでは、自分のことを考えて神様をおろそかにしている姿と、神様の命令に背く姿が描かれています。バベルの塔の物語を通して、私たちは自分自身を振り返りたいと思います。私たちは常に「選択」を生きています。二つの「選択」あるいは複数の「選択肢」から、今何を話し、どう行動し、何を思うかは、自分自身の選びです。これを「識別」といいますが、神様の命令を選び取ろうとしていますか?神様が自分に何を望んでいるかを考えて、行動したことはありますか?神様の命令が、自分にとっては不都合なことであるかもしれません。時には、その神様の命令が、自分の望みと一致するかもしれません。あるいは、自分の望みに耳を傾けることが、神様の望みである場合もあります。時には、自分を犠牲にして人のために尽くすことでもあります。この選択の基準は、神様と自分と他者を大切にする事であるのを覚えていましょう。そうすることで、自然と選択肢は狭まり、自分が今何をすべきかが分かってくるはずです。
次にこの物語では、神様の望みに適わなかった人々は、互いの言語が通じなくなり、コミュニケーションが取れなくなったために、世界中に散って行くという話でした。互いに理解できなくなり、相手に近づこうと努力することもなく、バラバラになる姿です。これも人間の愚かさの一つです。しかし、人間は、その正反対のことを実現させることもできます。それは、人間の素晴らしさだと思います。外国人をホームステイとして受け入れる家族や、留学生と共に過ごす学校生活、4年に一度あるワールドユースデイという、世界の青年が集まり共に生活し共に祈るイベントもそうです。互いに言葉が通じなくても、身振り手振りや表情などで、互いに分かり合おうと努力すれば、実際に相手の感情が通じ、相手も分かってくれるのです。そして共に祈ることで、心が一致しているのを感じ、感動します。さらには、外国でミサに預かると、「同じ」を経験するでしょう。互いに理解できなくても、互いに近づこうと努力することの大切さをあらためて考えたいと思います。また、言語に限らず、私たちはそれぞれ違います。育った環境が違えば、文化や価値観が異なります。その違いを受け入れようと努力していますか?友達同士や仕事仲間、あるいは家族と考え方の違いがぶつかることもあるでしょう。異なった解釈をすることで、誤解が生じることもあります。そのような時、相手を理解しようと努めるか、自分の主張を言い張るのかは、自分次第です。
それとは反対に、理解できないことに反撥するのではなく、心に納めてそれを思い巡らしていたのがマリア様でした。マリア様は、自分の子どもであるイエス様の、神殿での言葉が理解できませんでした。そして、「これらのことをすべて心に納めていた」と記されています。「心に納める」とは、忘れないように心の中にしまっておくこと、口に出すことなく自分の心の中に入れることです。世の中は、なかなか自分の思い通りにはなりません。どんなに仲の良い人でも、100%理解することも理解してもらうことも不可能です。そんな中で愚痴や不平は自然と出てきてしまいます。愚痴や不平は分裂の要因です。まず愚痴や不平が出てきてしまう前に、それらを心に納めて、他者に嫌な思いをさせないこと、他者と対立しないようにすることが大切なのでしょう。しかし、私たちは弱い人間です。嫌なことをすべて自分の中にしまい込み、吐き出すことをしなければ、病気になってしまいます。「吐き出さないと心に地獄ができる」という言葉を聞いたことがありますが、心に納めると同時に、吐き出す場、吐き出す相手を探す必要もあります。信頼できる人に愚痴を吐き出す事や、信頼できる場での分かち合い、ゆるしの秘跡などなど。自分にとって一番良い方法を見つけてください。

神殿で捧げられる・カインとアベル
ルカによる福音2章、創世記4章
今日のテーマは「捧げる」です。「捧げる」と聞いて何をイメージしますか?真心や愛情をもって相手に尽くす意味で「家族に捧げる」、慎みの心をもって神仏に差し出す意味で「祈りを捧げる」、自分の身も心もささげる意味で「研究に捧げる」などが思い浮かびます。旧約の時代には、神への感謝の気持ちを込めて「神に返す」という意味で、収穫の初物や家畜の初子を捧げていました。現在の私たちでも、その年最初に咲いたバラをマリア様に捧げて、マリア像の前に活けることをよくします。ユダヤでは、捧げ物といったら燃やして煙にし、その煙が天に昇ることで神へと届くのだと信じていました。カインは土の実りを、アベルは肥えた初子を神への捧げ物としましたが、神が目を留められたのは、アベルの子羊だったのです。なぜ神はアベルの捧げ物を気に入り、カインの捧げ物には目を向けなかったのでしょう?カインは自分が受け入れてもらえなかったことを怒りました。しかし神様は、怒ったカインに対して「もしお前が正しいのなら」どうして怒るのかと言われます。そしてカインは、自分の正しくないことを指摘されてひねくれた、そんな感じなのでしょう。では、その捧げ物の何が正しくなかったのでしょうか。これは想像でしかありませんが、アベルは一番良いものを捧げたのに対し、カインは一番良いものではなかったのかもしれません。もしかしたら、収穫のうち、一部を自分のために取っておいたのかもしれません。神への感謝の気持ちが足りなかったのかもしれません。私たちにもそんな姿がありませんか?
聖書では、名前の意味をとても大切にしています。アベルは、「無意味、無価値」を意味する名前です。神様は、無意味な無価値な存在とみなされているものを選び、受け入れてくださる、ということを表しています。では、現代の中で無価値とみなされている存在とは何でしょう?社会的に無価値とみなされているものに、私たちは目を向けているでしょうか?あるいは自分が、「無価値」とみなしてしまっているものがあるでしょうか?そして神様がアベルを受け入れたように、私たちも、無価値とみなしてしまっている存在を受け入れることが出来るでしょうか?神様にとっては、無価値な存在などあるはずがありません。それを忘れないで過ごしたいものです。カインとアベルの話でもう一つ注目したい点は、罪人を憐れむ神様の姿です。カインは弟を殺すという大きな罪を犯してしまいました。しかも反省するどころか、自分に下される罰を恐れるという、自分中心的な態度を取ります。にもかかわらず、神様はカインを守るのです。どんな罪人であっても、神様にとっては、やはり「無価値」ではないのです。
ルカ福音書を見てみましょう。イエス様が神殿にささげられた話ですが、ユダヤ教にはいけにえの制度があり、神様から祝福をいただくため、守っていただくため、あるいは罪のゆるしをいただくために、動物や何らかのものをささげる習慣がありました。律法には、初めて生まれる男子は神にささげられると定められています。しかし、赤ん坊を捧げて神殿に置いてくるわけにもいかず、そのかわりに家鳩や山鳩をささげることになっていたのです。ここで、「聖別」という言葉が出てきました。一般・世俗・日常のものから引き離して区別することを意味します。つまり、その何かを、神様のために取り分ける、取っておくのです。例えば、ご飯を炊いた時、その一部を取り分けて仏前にお供えするイメージです。例えば、時間を神様のために取り分けましょう。一日のうち、神様のために取っておく時間はありますか?通勤・通学の時間を、神様を考える時間にしても良いでしょう。寝る前の数分を神様の時間、と決めても良いでしょう。神様への捧げ方は人それぞれです。祈りに限らず、「勉強の時間を神様に捧げる」でも良いでしょう。「この仕事を神様に捧げる」でも良いでしょう。洗濯や掃除をしていても、友達と遊んでいても、食事をしていても、試験を受けていても、誰かの話を聞いている時でも、この時間・活動を神様に捧げます、と意向を付けて過ごしたら、物事に取り組む姿勢や気持ちが全く異なってくると思います。人生を自分のために生きるか神様のために生きるかは、自分次第です。自分のために生きる人生はどのようでしょう?神様のために生きる人生はどのようでしょう?考えてみたいと思います。
