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聖書の学び資料

善いサマリア人

ルカによる福音 10章、申命記6章
 
 何度も読んだことのある内容でしょう。「誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。この福音箇所のテーマはいったい何なのか考えたことはあるでしょうか。物語の初めと終わりでは、テーマがすり替わっているのに気づきましたか。「わたしの隣人とは誰か」という質問に対して、私の隣人とは誰かを知るために物語が始まったはずが、「行って、あなたも同じようにしなさい」つまり、「あなたが隣人になりなさい」という話にすり替わってしまったのです。自分は、誰かの隣人になっているでしょうか。隣人になるとは、どのようなことでしょうか。
 隣人になる条件に、「愛」があります。愛することで隣人となり、その相手を自分のように愛することが要求されています。「愛」とは、相手を大切にすることです。相手が嫌いであっても、敵であっても、自分に嫌なことをする人であっても、大切な存在として相手を大事にすることが「愛」であると言えます。このサマリア人は、どうでしょう。自分たちをいじめていたユダヤ人を見て、憐れに思って、とことんこの人のために尽くすのです。一人の人として大切にし、できる限りのことをするのです。私たちに、これほどのことができるでしょうか。しかしイエス様は、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われています。見知らぬ人かもしれません。苦手な人かもしれません。自分に危害を加える人かもしれません。そのような人ほど、愛することは難しいでしょう。自分はどれほど努力しているでしょうか。
 今回は「隣人を自分のように愛しなさい」について見てきましたが、これは第2の掟です。第1の掟は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」の方であり、まず神様を愛することです。旧約聖書では、「神様を愛する」=「掟を守る」でした。でも、現代の私たちにとって神様を愛するとは、どのようなことなのでしょう。今日の福音箇所、そして旧約聖書の内容を読んで、純粋に感じたことを分かち合いたいと思います。

パンの奇跡

ルカによる福音9章、列王記17章
 
 5千人に5つのパンと2匹の魚を食べさせた話は、何度も読んだことがあるでしょう。ヨハネの福音によると、一人の少年が自分と自分の親しい人のために持っていたお弁当だったようです。食べ物がなくて困っていた弟子たちを見て、話しやすいアンデレに頼んで、イエス様にお捧げしたお弁当だったと考えられます。この5つのパンが増えて5千人が満腹したのか、この少年の姿を見て、他にも自分のお弁当を差し出した人がたくさん出て来たのか、本当のところは分かりません。物質の奇跡か心の奇跡かの違いはありますが、イエス様の奇跡は、5千人の人が満腹したのです。
この話の面白いところは、弟子たちの宣教活動からの流れの出来事であることと、癒しと食事が結びついていることです。弟子たちはイエス様から派遣されて方々の町や村に出かけ、病気を癒し、神の国を宣教した帰りでした。おそらくその活動は成功で、興奮しながら喜んで帰ってきては、イエス様に報告したのでしょう。さて、自分たちだけで休もうとしたところ、またもや人々が押しかけて来て、同じように神の国について語り、病人を癒すことになるのです。イエス様は、ここでさらにもう一つのことを示されました。神の国について語り、病気を癒したら、共に食事をしようということです。キリスト教にとって、共に食事をすることはとても大切です。これはただ腹が満たされるだけではなく、人と人とのつながりです。聖書にはイエス様との食事の場面がよく出てきます。罪人と食事をするイエス様、食事の場でイエス様に気づく弟子たち、最後の晩餐で大切なことを弟子たちに教えるイエス様、そしてミサはイエス様の体を食べる食事の場です。食べるということは、人間にとって生きるために欠かせない行為です。命の源と言っても良いでしょう。心と体の癒しと神の国についての宣教は、食事を通して本当の命へと導かれ、完成するのです。
 旧約聖書では、別のパンの奇跡を読みました。預言者エリヤと共に生き延びた、外国の未亡人の話です。壺の中に1つのパンを作る分だけの小麦粉しか持っていなかったこの女性は、エリヤの言葉を信じて、干ばつがおさまるまで、パンを作り続けることができました。壺の中の小麦粉が、なくなることがなかったのです。これは、この女性の犠牲と信頼があってこそ可能となった奇跡です。自分と自分の息子のための最後の食糧を差し出す犠牲、これは分かち合いです。そして、それでも小麦粉は尽きないというエリヤの言葉を信じること。分かち合うことは、相手を信じることでもあります。相手を信頼するからこそ、自分の心の内を分かち合うことができます。食事を分かち合う時、相手が喜んでくれることを信じて分かち合います。分かち合いの素晴らしさは、相手を信頼する暖かさがそこにあるからなのでしょう。
今日のテーマの中で、もう一つ考えさせられることがあります。ユダヤ教徒にとって、ユダヤ人以外の人が救われることはあり得ませんでした。にもかかわらず、神様は預言者エリヤをユダヤ人ではなく、この外国人に遣わし、ユダヤ人が干ばつのために飢えている中、この外国人は飢えから救われたのです。
新約聖書でのパンの奇跡も同じです。今日は5つのパンを5千人にという話を読みましたが、7つのパンを4千人にという話もあります。これはデカポリス地方で行われた奇跡であるため、異邦人の地、外国なのです。ユダヤ人だけが救われると思っていたユダヤ教の神が、ユダヤ以外で奇跡を行い、異邦人に救いがもたらされる出来事です。しかも、パンの数が7、残ったパン屑を集めた籠の数も7です。7という数字は、完全を表す数字です。神様の奇跡は、異邦人において完成したのです。実際、キリスト教を信じている人のほとんどが、ユダヤ人からすれば外国人、異邦人です。4千人にパンを食べさせる話やエリヤと共に干ばつを生き延びた女性の話は、キリスト教の先取りとも言えるでしょう。私たち日本人は皆、ユダヤ教にとって異邦人です。しかし、私たちはイエス様を信じています。イエス様と語り合い、イエス様からの恵みを頂いています。その素晴らしさを味わいたいと思います。
今日は、信頼と分かち合いについて、神の国の宣教と癒しと食事の関係について、そして自分がイエス様を信じている喜びについて、話し合いたいと思います。

弟子の覚悟

ルカによる福音書9章、創世記6章
 
 皆さんは、なぜ聖書の勉強会に参加しようとここに集まっていますか?これについては以前にも分かち合ったことがありますが、ここに集まる理由として、イエス様に選ばれたと感じたことはあるでしょうか。神様に導かれてここにいると、感じたことはあるでしょうか。この聖書の勉強会でなくても良いでしょう。教会に、今の職場に、今の大学に、神様は私たちを送りたいと思い、導いてくださいました。
 今日読んだ聖書の箇所では、3人の人の在り方が描かれています。1番目の人と3番目の人は、自分からイエス様の弟子になりたいと志願しますが、受け入れてもらえません。泊まる場所もない旅の覚悟があるかとの問いかけがあり、家族との別れを惜しんでいるようではダメだとの指摘があります。それに対して2番目の人には、望んでもいないのに「わたしに従いなさい」との呼びかけがあります。親の最後を看取りたいと言っているのに、それでも「あなたは行って、神の国を広めなさい」とイエス様は言われました。条件付きの弟子では不十分であると同時に、イエス様の弟子になることは、本人がどんなに望んでも、イエス様の選びによるものなのです。ヨハネの福音書に、こんな言葉があります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。(ヨハネ15章16節)」まさにその通りなのです。私たちはよく、将来の夢として様々なことを考えます。しかし、それが叶うかどうかは、神様の導きなのです。司祭召命や修道召命となると、それらは明らかになります。医者や教師など職業ですと、それなりの努力や才能も影響しますが、司祭・修道者は、努力すればなれるものでもないし、才能も関係ありません。神様の導きを感じやすい生き方といって良いでしょう。しかし、やはり医者であっても教師であっても、会社人であっても無職であっても、もちろん学生であっても活動家であっても、すべてが神様の導きなのです。その神様の導きに従っているでしょうか。これが神様の導きであると意識しているでしょうか。
 もう一つ、今日は考えたいことがあります。私たちはイエス様を信じている以上、神様に従っています。しかしイエス様は、神様に従うためには家族とのいとまごいも許してはくれず、親の最後を看取ることも許してはくれないと、ルカ福音書には書かれているのです。イエス様に従うためには、本当に家族をも捨てなければならないのでしょうか。結婚をすると一つの家庭を築くために、家から出て新しい家庭を築く場合があります。社会人になって独り暮らしをすると、家を出るということもあります。シスターや神父の道を進むときも、家を出ることになり、好きな時に家に帰るわけにはいきません。私たちは一つの召命として、神様の導きによってそれなりの職業についたり、それなりの生き方をします。しかし、それは家族を捨てて神様に従っているというわけではないでしょう。どんなにイエス様に従っていても家族は大切なのです。では皆さんは、イエス様に従うことと家族との関係をどのように思っていますか。なぜイエス様は、弟子になるためには親の葬式をすることも家族と別れを惜しむことに対して、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われたのでしょう。皆さんはどう思いますか。神学的な解釈はさまざまですが、今日はあえて、皆さんの純粋な気持ちを分かち合いたいと思います。

奉仕

ルカ福音8章、ルツ記1章
 
 今日のテーマは「奉仕」です。よく似た言葉に「ボランティア」がありますが、「ボランティア」とは、自発的に自ら人のために働くことであり、無報酬の場合にボランティアと言います。それに対し「奉仕」とは、自由意思で行う場合もありますし、強制されてする場合もあります。また、無償であっても有償であっても「奉仕」です。
 福音書を書いたルカは、医者であったこともあり、弱い立場にある人たちに対しての理解があります。当時、女性と子どもは、人数にも数えられないほど蔑まれた存在でした。その女性に視点を当てて書いたルカ福音書は、ある意味画期的な考え方だったのでしょう。しかしそれ以上に、イエス様は子どもや女性に優しかったのです。女性が公の場で奉仕することなどなかった社会に、イエス様は平気で女性を受け入れ、女性が奉仕するのを許されました。そして、ルカがそこに視点を当てて、福音書を書いたのでした。イエス様が社会から疎外されている人々を受け入れている姿を通して、神様からのメッセージが伝わってきます。
 今日読んだこの箇所は、イエス様の宣教の仕方が変わる部分です。この箇所から、イエス様は12人の弟子たちと行動を共にされる姿が描かれるようになります。使徒と呼ばれる12人の弟子たちは、イエス様の働きの証人です、また、イエス様と行動を共にすることは、彼らが担うことになる宣教の使命の準備段階となりました。宣教は、キリスト者としての義務です。宣教は、自ら出かけていく行為です。勇気をもって人々に関わる必要があります。しかし大切なのは、ただの「宣教」ではなく、「福音宣教」です。「宣教」とは、特定の宗教を教え広めることをいいますが、「福音宣教」とは、イエス様の福音を広めることです。福音とは、神様からの幸せの知らせです。私たちは、「福音宣教」するとき、人々に幸せを届けるのです。イエス様は、人々に幸せを届けていました。まさに福音宣教です。病気を癒し、社会から疎外されている人々を受け入れ、罪をゆるすことで心の傷を癒し、苦しんでいる人々の心に希望を与えました。私たちは、そんな「福音宣教」をしているでしょうか。
 最後に、この女性たちは、「自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」と書かれています。これは、初代教会の在り方です。イエス様の死と復活、昇天の後、弟子たちは教会を立ち上げました。どんどん増える信者たちが共同生活をしながら、自分たちの持ち物を出し合って、食べ物を分かち合い、信仰生活を送っていたのです。イエス様と12使徒の宣教活動の始まりと婦人たちの奉仕の場面で、あえて分かち合う姿が描かれているのは、宣教するにあたり、とても大事な姿勢だからなのだと考えられます。自分の出せるものは差し出す精神。物やお金を出し合うだけでなく、自分の才能を人のために使い、自分の時間を差し出し、自分の労力を惜しみなく捧げること。私たちは、それぞれの持っているものを分かち合って生きていくのです。人それぞれ得意分野は異なりますし、それぞれもっているものは違います。そんな中で、分かち合うことを大切にしていきたいと思います。それこそ「奉仕」の精神であり、「福音宣教」です。
これらを踏まえて今日は、「奉仕」について「社会から疎外されている人々」について「福音宣教」について「分かち合うこと」について、話し合いましょう。

ルカによる福音7章、出エジプト20章
 
 「犯罪」といったら、法律上の行為を主にさしますが、「罪」というと、宗教的意味合いが強くなります。同じ行為であっても、神様に反することか社会に反することかの違いがあります。私たちは、他者と共に生きるにあたり、どんな社会でもどんな共同体でも決まり事をつくります。その決まり事に反することを「犯罪」と言ったり、「罪」と言ったりするのです。一方、奴隷であったエジプトから逃れたばかりのイスラエルには、規則がまだなく、それぞれがそれぞれの思いに従って生きていました。このように自分の良心が基準であり、人それぞれというのは、集団の中では当然問題が起こります。そんな中、「十戒」という規則を神様が与えてくださったという話が、今日の旧約聖書の内容です。十戒は、集団生活がうまくいくようにという、イスラエルに対する神様の、一つの思いやりだったのです。
神様は、イスラエル民族に十戒を与えるにあたり、まずご自分の自己紹介から始めました。神様はご自分のことを「奴隷の家から導き出した神」であると言われました。奴隷は、非人間的存在であり、当時は家畜同様にみなされていました。その「非人間的存在」から「真の人間」へと、神様が導いたのだと聖書は強調しています。それを忘れるなと、神様はイスラエルに何度も語り掛けます。「真の人間」とは、いろいろな解釈がありますが、旧約聖書に基づくと、木の実を食べる前のアダムとエバ、つまり罪と死のない状態であると考えられます。人間を「真の人間」へと導くために十戒が与えられたのであるならば、十戒を守ろうと努力するということは、非人間から真の人間へと変わる過渡期であると言えます。私たちはさまざまな過渡期を経験しながら、成長していきます。子どもから大人への過渡期といえば、青少年や青年期をさします。人生の過渡期というと、それまで勤めていた職場をやめて新しい仕事を探している時期だったり、大学卒業に伴って就職活動をしている時期だったり、自分の召命を探し求めている時であったりします。目標が決まっている移行の時期であればよいのですが、到達点が曖昧な場合や、まだゴールにたどり着いていない状態というのは、悩みや辛いことが多いのです。そのような過渡期において、イスラエルの人々が十戒を基準にして到達点へと向かったように、私たちにも、頼れる何か、私たちを支える何かが必要であると思います。自分は、何に頼って生きていますか?何を頼りに、どこに向かっていますか?
最後に、なぜ「規則」が存在するのかを考えたいと思います。「規則」は、一つの思いやりであると言えます。「規則」には、他者に危害を加えないための禁止事項や、他者と共存するための対策が、織り込まれています。自分の権利を守ると同時に、他者の権利をも守るものです。つまり、これは相手への思いやりなのです。自己中心的なものであったり、相手を傷つけるようなものは、規則をゆがんだ解釈でとらえています。今日読んだルカ福音の「罪深い女を赦す」話の中で、この女性を「罪深い女」と決めつけている時点で、この女性を傷つけています。それはもはや、「規則」に基づいたものではなく、ただの偏見です。この女性は、十戒に反する行為をしているのかもしれませんが、その十戒に基づいてこの人を裁き、この人を傷つけているのでは意味がありません。もはや、十戒は私たちを支えるものではなく、私たちが十戒の奴隷になってしまっています。この出来事を通してイエス様は、人々に欠けていた優しさを思い出させてくださいました。この女性は「罪深い女」ではなく、「赦された存在」なのだと、イエス様は公言したのです。この一言が、この女性にとって一番の救いだったのでしょう。それは、この女性に対する最大限の優しさでもありました。そしてそれに対する応えが、「イエスへの愛」でした。神様を愛するためには、まず、自分が赦された存在、救われた存在であることを実感しなければなりません。自分は何を赦され、何から救われたのか、自分の信仰の原点を振り返る機会にしましょう。

聖マリアの無原罪教育宣教修道会

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