聖書の学び資料
イエスの受難
マルコによる福音 14 32-52節
イエス様の受難はゲッセマネでの祈りから始まり、この祈りを通してイエス様は十字架を受ける覚悟をされます。これから受ける苦しみを取り除けて欲しいけれど、自分の願いより、天の御父の望みどおりにしてくださいという祈りです。イエス様は、これから自分が受けるであろう苦しみがどんなものであるかを知っており、それゆえに苦しんでいました。「イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。』」イエス様の苦しみがどれほどであるかが分かります。それは、愛する弟子の裏切り、愛する弟子の離反、人々のののしり、十字架の死、天の御父にも見捨てられたのではという不安と孤独・・・です。イエス様は何のためにこれほどの苦しみを受けられたのでしょう。イエス様は、愛する弟子のために苦しみを耐え忍び、愛する人々のために苦しみを捧げ、愛する御父の望みのために苦しみを受け入れたと考えられます。このように見てみると、イエス様の苦しみは「愛」のためであるとしか考えられません。私たちも、必ず大なり小なり苦しみや悩みを抱えています。その苦しみに意向をつけてみてはどうでしょうか。ある聖人は、自分の苦しみはイエス様の十字架のかけらであると考え、イエス様と苦しみを共にできることを喜びとしました。今自分が抱えている苦しみは、この苦しみを受け入れることで誰か他の人に幸せが届くという信仰をもつことも出来ます。苦しみは何のためか?自分の成長のためかもしれませんし、神様は何かを教え諭そうとしているのかもしれません。様々な意味が考えられるでしょう。自分が、直面している苦しみとどう向き合うかなのでしょう。
今日、もう一つ大切にしたいテーマは、こんな苦しみの中、イエス様は弟子たちに側にいてほしいと望んだことです。イエス様は私たちに、側にいてほしいのです。弟子たちの中から「使徒」を選んだときも同じであったことが思い出されます。使徒を選んだのは、「そばに置くため」でした。それなのに愛する弟子に裏切られ、他の愛するすべての弟子にも見捨てられました。友達や、側にいてほしいと思った人に裏切られる痛みはどれほどでしょう。イエス様はどんな思いで、すべてをされるがままにしたのでしょう。それは想像するしかなく、聖書を祈りながらイエス様の心を感じるしかありません。聖書を黙想しながら、イエス様の心を味わいたいと思います。
