聖マリアの無原罪教育宣教修道会は、カトリック教会です。

 

キリスト教とは

 
 
キリスト教とは
唯一の神、三位一体の神を信じ、三位一体である父と子と聖霊の名によって洗礼を受け、イエス・キリストの死と復活とその言葉を信じる宗教です。
と言うと、難しい言葉が並んでよく分かりませんが、この世界をつくった神を「父」と呼び、その神の子としてこの世に来られた方を「子」つまりイエス様であると信じて、神様の霊、力を「聖霊」として、その3つを一つの神と信じているのです。
聖書を使っているからといってキリスト教ではありません。聖書を使う別の宗教もあります。
「キリスト」という言葉は、メシアという意味で、日本語にすると「救い主」です。イエス様が救い主であると信じているのがキリスト教です。
 
カトリックとプロテスタント
キリスト教には大きく分けて、カトリックとプロテスタントの2種類があります。カトリックは、ローマカトリックとも言われ、昔からの伝統を守りながら、教皇を中心に一つの組織を形作っています。それに対し、プロテスタントは新教とも言われ、カトリックの人々が人間的弱さのために堕落したことを批判して、独自の教理をつくっていったキリスト教です。カトリックは、このプロテスタントの動きに危機感をいだき、公会議をもって腐敗部分を改めましたが、プロテスタントはすでに多くの教派が出現しており、現在に至っています。
カトリックはどの教会に行っても同じ教理を唱えていますが、プロテスタントは教会毎に、そして牧師毎に、異なった教理をもっています。カトリックには神父とシスターやブラザーという修道者が存在するのに対し、プロテスタントは牧師のみが存在し、教会の司牧にあたっています。カトリックもプロテスタントも、教理は違っても、同じ信仰をもち、同じイエス・キリストを信じています。
また、カトリック、プロテスタント以外に、ロシア正教もあります。これはカトリックに近いようです。プロテスタントと同じように、カトリックから分派したものですが、プロテスタントとも区別されます。西方教会(ローマカトリック)に対して、東方教会と呼ばれ、伝統を大切にしている教派です。カトリックと同じようにミサを行いますが、カトリックは普段30分〜1時間で終わるのに対し、ロシア正教のミサは、2〜4時間かかり、荘厳に行われます。
 
聖書
聖書は、永遠のベストセラーとも言われるように、キリスト教に限らず多くの宗教で使われ、また宗教以外でも用いられたりします。聖書は漢字で「聖なる書物」と書きますが、英語やラテン語系の言語などでは“bible”“biblia”と、その語源は“book”つまり「本」です。つまり、聖書とは本なのです。聖書を開いてみると分かるように、小さな物語や書簡、預言書などがたくさん入っています。いくつかの本が集まって一つの聖書となっています。
キリスト教では、聖書は「旧約聖書」と「新約聖書」の二つに分けられています。「旧約」とは古い約束、「新約」とは新しい約束のことです。大まかにいうと、旧約聖書は、イエス様の時代より前の出来事が描かれ、新約聖書は、イエス様の時代からその弟子たちのことが描かれています。
ユダヤ教でも聖書を使うのですが、ユダヤ教ではイエス様は一預言者にすぎないため、新約聖書は認めていません。旧約聖書のみ用い、もちろん「旧約」という概念もありません。
キリスト教もユダヤ教も、聖書は神様の言葉であると信じています。神様の言葉を、人間でも分かるように人間の言葉で書いたものが聖書です。
 
教会
教会とは、キリスト信者の集まりのことです。よく、建物を教会と言いますが、実際には十字架のついた建物がなくても、聖堂がなくても、何人かのキリスト信者が集まって組織を作れば、それは教会です。アフリカなど貧しい国では、普段は広場であっても、日曜日になるとそこが教会になるということはよくあります。
教会では信者たちが集まり、ミサに預かったり、祈ったり、歌ったり、集会や勉強会が行なわれたりします。原則、誰でも自由に入れます。
 
旧約聖書と新約聖書
旧約聖書は特に、救いの歴史が描かれています。人間の弱さを通して働く神様の力や、弱い人間が神様に従うための方法などが書かれています。なので、とても 悪い人間の言動も多く、また神様の怒りなども描かれており、読んでいると、これが聖なる本であるのかと疑問にもつ可能性もあります。しかし、これらは当時 の人々の価値観が大きく反映されているために、このように描かれているのです。それよりは、神様の導きに重点をおいて、旧約聖書を読むのが良いようです。
新 約聖書は、人間への神様からのメッセージです。旧約聖書とは対照的に、「怒りの神」ではなく「愛の神」を強調して描かれています。イエス様は何のためにこ の世に来たのか、イエス様は何を訴えているのかを考えることで、神様の愛を感じるようになります。聖書は、道徳的書物として捉えがちですが、むしろ神様の 愛を感じるための書物と捉えたほうが良いでしょう。どれほど神様は、この私を愛しているのかを、そして神様は、この私にどのような生き方を望んでいるのか を、聖書を通して知るのです。
新約聖書には、4つの福音書と使徒言行録、そして22の書簡、全部で27の書物が含まれています。
旧約聖書には、モーセ五書、歴史書、預言書、知恵の書、詩篇があり、全部で54の書物がありますが、そのうち、プロテスタントは15の書物を認めておらず、プロテスタントの認めていない15の書物を、カトリックでは続編として用いています。
 
福音
福音とは、字のごとく、「幸福」の「福」と「音便(手紙のこと)」の「音」です。つまり、神様からの幸せの便りを意味します。主に聖書には、「マタイによる福音」「マルコによる福音」「ルカによる福音」「ヨハネによる福音」と四つの福音書があります。聖書は神様の言葉であるという信仰を、私たちはもっています。読むたびごとに、全くことなるメッセージを受けます。これこそ神様からの手紙であり、神様からの幸せのメッセージです。
 
ミサと礼拝
宗教には儀式がつきものであるように、キリスト教にも祈りの儀式があります。よく「礼拝」という言葉を耳にしますが、礼拝をするのはプロテスタントであり、カトリックは「ミサ」を行います。カトリックには秘跡といって、たくさんの儀式がありますが、もっとも良く行われ、もっとも身近なものが「ミサ」です。
ミサとは、ミッション(派遣)がその語源であるように、日常生活へと派遣されるための力を得るものです。信者が集まり、神父様の司式で、祈り、聖書の朗読を聞き、歌い、神父様の話を聞き、そしてパンの分かち合いをします。
イエス様が亡くなる前にされた最後の晩餐の場面を思い起こす儀式がミサの中心になっており、最後の晩餐でのイエス様の言葉のように、ここにあるパンがイエス様の身体であることを信じて、ミサの中でパンがご聖体(イエス様の身体)となり、それを皆で分かち合います。
ミサには「入祭の儀」「ことばの典礼」「感謝の祭儀」「交わりの儀」「閉祭の儀」があります。「入祭の儀」は、歌と挨拶と祈り、「ことばの典礼」は、聖書朗読と歌と信仰宣言と共同祈願、「感謝の祭儀」は、奉納とパンの聖体への変化、「交わりの儀」は、祈りと聖体をいただく、そして「閉祭の儀」は、祝福と派遣と歌です。
ミサは、信徒と神父が共に作り上げる儀式です。
 
アーメン
祈りの後によく「アーメン」と唱えますが、これは「然り」「はい、そうです」「その通り」という意味です。神父様や先唱者の唱える祈りに「アーメン」と応える場合、「この祈りを私も同じように捧げます」という意味を込めています。また、聖体拝領の時に神父様や聖体奉仕者が「キリストの体」と言って御聖体を頂く際、「アーメン」と応えますが、「この目の前にあるパンはキリストの体であることを信じます」との信仰宣言として唱えます。
 
聖職者
カトリックには聖職者と言われる人がいます。神聖な仕事に携わっている人のことで、簡単に言えば神父様のことですが、司祭、司教、大司教、枢機卿、教皇が聖職者です。ミサなどの秘跡を行い、イエス様の代理として働いています。
ちなみに、シスターも聖職者であると勘違いされることがありますが、シスターは聖職者ではありません。
 
祈り
祈りとは、神様との対話です。「ミサ」も祈りですが、心をこめて聖歌をうたったり、聖書を読んでその言葉を味わったり、自分の言葉ですることも祈りです。口に出す場合もありますが、心の中で祈ることも、キリスト教では大事にしています。祈りの種類には、「賛美」「感謝」「ゆるし」「願い」があります。神様のすばらしさを賛えること、頂いた恵みを感謝すること、自分の罪を反省しゆるしを願うこと、そして自分の望みを言い表すことです。キリスト教では、祈りの最後にイエス様の名前で祈ることがよくあります。「主イエスのみ名によって。アーメン。」このように祈ることで、イエス様に対する信仰の表れにもなります。その他にも、「ロザリオ」「聖母の連祷」「聖霊賛歌」「九日間の祈り」などのように、マリア様に対する祈りや聖霊を求める祈り、聖人の取次ぎを求める祈りなど様々です。
 
典礼
典礼とは、キリスト教における儀式のことです。カトリックでは季節ごとに典礼を大きく分け、クリスマス前の準備の期間である「待降節」、クリスマスの時期「降誕節」、イースターの前「四旬節」、イースターの期間「復活節」そして、それ以外の普段の典礼を「年間」と呼んでいます。また、「ミサ」のことを「典礼」と言ったりします。典礼の季節ごとに色が決まっており、「待降節」と「四旬節」は「回心」「待つ」を意味する紫「降誕節」と「復活節」は「清らさか」「喜び」「復活」を意味する白「年間」は「命」「忍耐」「希望」を表す緑を使います。その他、殉教者の記念日・祝日には「血」の色である赤を使い、マリア様や他の聖人の記念日・祝日は白を使います。葬式や亡くなった方のための典礼では、「悲しみ」の色である紫や黒を使いますが、「復活」の色である白を使う場合もあります。また、「待降節」の第3週目の日曜日と「四旬節」の第4週目の日曜日には、「喜び」の色であるピンクを使うこともできます。
 
教理
キリスト教の中で、これだけは信じるようにと、教会で決められた事柄です。キリスト教の信仰の定義にもなります。「普遍」を意味するカトリック教会は、世界中どこに行っても同じ信仰を分かち合い、ひとつになれるよう、いくつかの教理が定められています。教理のお陰で、言葉の通じない外国に行っても、自分の信仰を保つことができます。キリスト教に入信するためには、これらの教理を学び、キリスト教では何を信じているのかを明らかにした上で、信仰を表します。頭で理解した後、心で信じるあるいは信じたいと思うことが必要となります。例としては、神様は唯一であるという信仰、神様がこの世界をつくり、天の父であるという信仰、三位一体の神への信仰、イエス・キリストは神であり人であり、私たちの救い主であるという信仰、マリア様は神の母でありおとめであり、天に上げられ、私たちの母であるという信仰などです。
 
十字架
十字架は、もともと死刑の道具でした。人間の考えうる最も苦しい残酷な死刑の道具と言われています。縦と横に木を組み合わせた物に、両手首と両足に釘で貼り付け、何時間もその状態で苦しみ、最終的に死に至るのです。万歳のような形で何時間もいると、横隔膜が上がり、だんだん息ができなくなり、窒息するというものです。足を支える物が付いており、身体を支えることで少しは楽になるのですが、死が長引くと、足の骨を折って身体を支えられなくし、窒息へと導きます。
イエス様の場合は、十字架刑の前に鞭打ちの刑を受けており、かなり衰弱した状態での十字架であったため、足の骨を折ることなく亡くなりました。このような苦しい刑を、イエス様は私たちのために受け、十字架を祝福のしるしに変えてくださいました。十字架を見るたびに、イエス様の愛を感じ、十字架による祝福を私たちは頂くのです。
 
キリスト
「キリスト」とは、ギリシア語で「救い主」のことです。ヘブライ語の「メシア」と同じ意味です。「メシア」は、「油注がれた者」とも言われます。ヘブライ人たちは、油を注がれた者が王となります。王様がイスラエルの国を救ってくれるという信仰をもっているからです。イスラエルを支配している敵から救ってくれる、支配勢力からの解放が「救い」でした。現代の私たちにとっては、「罪」からの解放、また「癒し」が救いです。「イエス・キリスト」と言う場合、「イエス様は私たちの救い主です」という信仰告白でもあります。
 
三位一体
三位一体とは、「父と子と聖霊」のことです。キリスト教は唯一の神を信じていますが、「父と子と聖霊」の三位が完全な一体であり、それこそ唯一の神であるというのです。「父」とは天の御父、この世界をつくった創造主、神様です。「子」とは、神の子・イエス様のことです。
 
聖霊
聖霊とは、「神の霊」「神の力」「神の息吹」「神の働き」「御父と御子の愛の交わり」などと表現されます。「風」「息」「霊」「はと」「炎」「いのち」などがシンボルで、神様から私たちに働きかける力が聖霊です。風が吹くと木の葉は揺れます。息を吹きかけるとロウソクの火は消えます。息や風は目に見えないけれど、気が揺れる、火が消えるなどの働きは見え、息や風の存在を知ることができます。聖霊は、そのようなものです。
 
天使
「天使」とは、字のごとく、「神様の、天からの使い」です。「奉仕する霊」「救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために遣わされた存在」とも言われています(ヘブライ1,14参照)。神様から遣わされて私たちを守ってくださったり、神様からの伝言を持ってきてくださったりします。代表的なものとしては、「大天使ミカエル」は悪魔と戦う天使、「大天使ガブリエル」は神様の言葉を告げる郵便のような役割を果たします。マリア様へのお告げの場面で出てくる天使が、それです。「大天使ラファエル」は私たちに癒しをもたらしてくれる天使です。また、「守護の天使」は私たちを、あらゆる危険から守ってくださいます。天使を礼拝することは禁止されており、これらはすべて神様からの「使い」です。神様を賛美するために存在しています。
 
奇跡
奇跡とは、不思議な出来事、超自然的な出来事をイメージすることがありますが、奇跡とはただの不思議な出来事ではなく、そこには必ず喜びや感動、神への感謝が伴います。例えば、崖から落ちそうになって奇跡的に助かった、難病にかかり医者からも見離されたのに奇跡的に治った、もうダメだと思っていたことがうまくいった、などなどです。超自然的な出来事+心の動きが、奇跡なのです。聖書の中にはたくさんの奇跡が記されていますが、ほとんどの場合、本人または周囲の人々、関係者は、神を賛美し、感動し、喜び、時にはイエス様に従うきっかけとなっています。奇跡は私たちの信仰を強めます。
 
神の国
聖書にはよく「神の国」という言葉が出てきます。一般的に「天国」を意味します。イエス様の時代のイスラエルは、ローマ帝国の支配下でした。イスラエル民族は長い間、エジプトやバビロンなど、様々な国の支配下にあり、苦しい時代を生き抜いてきた民族です。そのため、支配勢力に打ち勝ち、自分たちの国を造ることが希望でした。イエス様の時代の一般の人々は、ローマ帝国からの解放が「救い」だったのです。他の誰でもない、神様の支配する自分たちの国、それが「神の国」です。これは当時の人々の考えですが、現代の私たちにとっては、神様の支配する国=私の生活は神様が支配している、ということではないでしょうか。神様の支配する生活、つまり神様中心の生活です。「神の国」を生きるとは、何をするにも神様中心に行動するのです。仕事も神様のため、勉強も神様のため、遊びも神様のため、寝るのも食べるのも神様のために生きること、そうすることで、身近に「神の国」が実現していくのでしょう。

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