聖マリアの無原罪教育宣教修道会では、子どもたちや若者たちがキリスト教的教育を通して真の幸福を見つけられるようお手伝いしています。

 

聖書の学び資料

 
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ルカ福音8章 ルツ記1章
奉仕
 今日のテーマは「奉仕」です。よく似た言葉に「ボランティア」がありますが、「ボランティア」とは、自発的に自ら人のために働くことであり、無報酬の場合にボランティアと言います。それに対し「奉仕」とは、自由意思で行う場合もありますし、強制されてする場合もあります。また、無償であっても有償であっても「奉仕」です。
 福音書を書いたルカは、医者であったこともあり、弱い立場にある人たちに対しての理解があります。当時、女性と子どもは、人数にも数えられないほど蔑まれた存在でした。その女性に視点を当てて書いたルカ福音書は、ある意味画期的な考え方だったのでしょう。しかしそれ以上に、イエス様は子どもや女性に優しかったのです。女性が公の場で奉仕することなどなかった社会に、イエス様は平気で女性を受け入れ、女性が奉仕するのを許されました。そして、ルカがそこに視点を当てて、福音書を書いたのでした。イエス様が社会から疎外されている人々を受け入れている姿を通して、神様からのメッセージが伝わってきます。
 今日読んだこの箇所は、イエス様の宣教の仕方が変わる部分です。この箇所から、イエス様は12人の弟子たちと行動を共にされる姿が描かれるようになります。使徒と呼ばれる12人の弟子たちは、イエス様の働きの証人です、また、イエス様と行動を共にすることは、彼らが担うことになる宣教の使命の準備段階となりました。宣教は、キリスト者としての義務です。宣教は、自ら出かけていく行為です。勇気をもって人々に関わる必要があります。しかし大切なのは、ただの「宣教」ではなく、「福音宣教」です。「宣教」とは、特定の宗教を教え広めることをいいますが、「福音宣教」とは、イエス様の福音を広めることです。福音とは、神様からの幸せの知らせです。私たちは、「福音宣教」するとき、人々に幸せを届けるのです。イエス様は、人々に幸せを届けていました。まさに福音宣教です。病気を癒し、社会から疎外されている人々を受け入れ、罪をゆるすことで心の傷を癒し、苦しんでいる人々の心に希望を与えました。私たちは、そんな「福音宣教」をしているでしょうか。
 最後に、この女性たちは、「自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」と書かれています。これは、初代教会の在り方です。イエス様の死と復活、昇天の後、弟子たちは教会を立ち上げました。どんどん増える信者たちが共同生活をしながら、自分たちの持ち物を出し合って、食べ物を分かち合い、信仰生活を送っていたのです。イエス様と12使徒の宣教活動の始まりと婦人たちの奉仕の場面で、あえて分かち合う姿が描かれているのは、宣教するにあたり、とても大事な姿勢だからなのだと考えられます。自分の出せるものは差し出す精神。物やお金を出し合うだけでなく、自分の才能を人のために使い、自分の時間を差し出し、自分の労力を惜しみなく捧げること。私たちは、それぞれの持っているものを分かち合って生きていくのです。人それぞれ得意分野は異なりますし、それぞれもっているものは違います。そんな中で、分かち合うことを大切にしていきたいと思います。それこそ「奉仕」の精神であり、「福音宣教」です。
これらを踏まえて今日は、「奉仕」について「社会から疎外されている人々」について「福音宣教」について「分かち合うこと」について、話し合いましょう。
 
ルカによる福音7章 出エジプト20章
 「犯罪」といったら、法律上の行為を主にさしますが、「罪」というと、宗教的意味合いが強くなります。同じ行為であっても、神様に反することか社会に反することかの違いがあります。私たちは、他者と共に生きるにあたり、どんな社会でもどんな共同体でも決まり事をつくります。その決まり事に反することを「犯罪」と言ったり、「罪」と言ったりするのです。一方、奴隷であったエジプトから逃れたばかりのイスラエルには、規則がまだなく、それぞれがそれぞれの思いに従って生きていました。このように自分の良心が基準であり、人それぞれというのは、集団の中では当然問題が起こります。そんな中、「十戒」という規則を神様が与えてくださったという話が、今日の旧約聖書の内容です。十戒は、集団生活がうまくいくようにという、イスラエルに対する神様の、一つの思いやりだったのです。
神様は、イスラエル民族に十戒を与えるにあたり、まずご自分の自己紹介から始めました。神様はご自分のことを「奴隷の家から導き出した神」であると言われました。奴隷は、非人間的存在であり、当時は家畜同様にみなされていました。その「非人間的存在」から「真の人間」へと、神様が導いたのだと聖書は強調しています。それを忘れるなと、神様はイスラエルに何度も語り掛けます。「真の人間」とは、いろいろな解釈がありますが、旧約聖書に基づくと、木の実を食べる前のアダムとエバ、つまり罪と死のない状態であると考えられます。人間を「真の人間」へと導くために十戒が与えられたのであるならば、十戒を守ろうと努力するということは、非人間から真の人間へと変わる過渡期であると言えます。私たちはさまざまな過渡期を経験しながら、成長していきます。子どもから大人への過渡期といえば、青少年や青年期をさします。人生の過渡期というと、それまで勤めていた職場をやめて新しい仕事を探している時期だったり、大学卒業に伴って就職活動をしている時期だったり、自分の召命を探し求めている時であったりします。目標が決まっている移行の時期であればよいのですが、到達点が曖昧な場合や、まだゴールにたどり着いていない状態というのは、悩みや辛いことが多いのです。そのような過渡期において、イスラエルの人々が十戒を基準にして到達点へと向かったように、私たちにも、頼れる何か、私たちを支える何かが必要であると思います。自分は、何に頼って生きていますか?何を頼りに、どこに向かっていますか?
最後に、なぜ「規則」が存在するのかを考えたいと思います。「規則」は、一つの思いやりであると言えます。「規則」には、他者に危害を加えないための禁止事項や、他者と共存するための対策が、織り込まれています。自分の権利を守ると同時に、他者の権利をも守るものです。つまり、これは相手への思いやりなのです。自己中心的なものであったり、相手を傷つけるようなものは、規則をゆがんだ解釈でとらえています。今日読んだルカ福音の「罪深い女を赦す」話の中で、この女性を「罪深い女」と決めつけている時点で、この女性を傷つけています。それはもはや、「規則」に基づいたものではなく、ただの偏見です。この女性は、十戒に反する行為をしているのかもしれませんが、その十戒に基づいてこの人を裁き、この人を傷つけているのでは意味がありません。もはや、十戒は私たちを支えるものではなく、私たちが十戒の奴隷になってしまっています。この出来事を通してイエス様は、人々に欠けていた優しさを思い出させてくださいました。この女性は「罪深い女」ではなく、「赦された存在」なのだと、イエス様は公言したのです。この一言が、この女性にとって一番の救いだったのでしょう。それは、この女性に対する最大限の優しさでもありました。そしてそれに対する応えが、「イエスへの愛」でした。神様を愛するためには、まず、自分が赦された存在、救われた存在であることを実感しなければなりません。自分は何を赦され、何から救われたのか、自分の信仰の原点を振り返る機会にしましょう。
 
ルカによる福音 6章 出エジプト16章
愛とゆるし
 旧約聖書において私たちは、神様のゆるしの姿をたくさん見ることができます。そこには、人間の弱さが強調される中、その人間の弱さを受け入れる神様の姿や、弱さゆえに犯した罪をゆるす神様の姿が描かれています。今日読んだ出エジプトの話でも、エジプト脱出の時に神様の力を目の当たりにしているにもかかわらず神様を信頼できないイスラエルの人々に対し、神様は叱りながらも、その必要を満たされます。「忍耐」「ゆるし」「寛容」の姿です。出エジプトの時代のイスラエルは、いわば、子供の信仰です。親が子供を諭し愛するように、芽生えて間もない信仰への神様の配慮であり、神様の愛のしるしです。「愛」とは、「かけがえのないものとして大切にすること」を意味します。旧約の神様にとって、イスラエル民族が、かけがえのない存在だったのです。
一方、新約聖書では、より厳しい言葉が出てきます。「敵を愛しなさい」。「敵への愛」は旧約聖書にも度々でてきますが、イエス様の言われる「敵を愛しなさい」とは、単なる倫理的なものではなく、神の国の実現が含まれています。聖書全体は、神の国について書かれているからです。ここでは、敵への愛の方法が3つ描かれています。①憎しみに対して親切に、②悪口に対して祝福を、③侮辱に対して祈りをするのです。具体的な例も挙げられていますが、「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない」とは、上着を奪われたら、下着をも与えなさいということです。つまり、その物を自分の物にする権利のない人に、その所有権を与える行為です。泥棒は、盗んだ物を自分の物にする権利などありません。それは道徳的にも倫理的にも宗教的にも認められることではありません。しかしイエス様は、そうするようにと言われます。福音は、神の国の到来を告げるものです。救われるに値しない存在をも、神様は救おうと望んでおられるのです。善人にも悪人にも太陽を昇らせるのは、神様の業です。私たちも、善人にも悪人にも、与えられるものは与えなければならないのです。このような神の行いを、私たちも人に対して行いなさいとのメッセージが、ここには含まれています。
「 愛」は、嫌いであっても好きであっても可能です。つまり、嫌いであっても可能な「愛」があるのです。先にも述べたように、「愛」とは、「かけがえのないものとして大切にすること」です。敵を、感情的に好きになる必要はありません。むしろ、その人を大切な存在として認め、その人のために尽くすことが求められます。これを「放棄の愛」と言います。敵とは、自分の嫌いな人であるかもしれません。自分に不利益をもたらす人であるかもしれません。あるいは、ライバルだったり、自分に危害を加える人であったり、生理的に受け入れられない存在であったり…。そのような存在を、かけがえのないものとして愛するには、まず自我を捨てなければなりません。プライドを捨て、自分の感情を捨て、嫌悪感を捨て、自分の利益を捨て、そしてその人のために尽くすのです。それは、放棄の精神が求められ、ゆるしが前提にあります。愛とゆるしは、切っても切れない関係にあるのです。自分の置かれた場で、「愛」を生きるにはどうしたら良いか、「愛」のために何が求められているのかを、今日は考えたいと思います。
 
ルカによる福音 6章・出エジプト12章
幸と不幸
 今回のイエス様のお話は、自分では不幸と思っていても実は幸せなんだよと、私たちに訴えているようです。イエス様は弟子たちに対して、このような「幸と不幸」についての話をしましたが、この話を聞いていた人々はそこに集まっていた人々、つまりイエス様の教えを聞くため、病気を癒していただくために来た人々でした。貧しさや病、生活苦に悩んでいた人々は、自分たちは不幸だと思っており、なんとか幸せを掴みたいと思っていたのでしょう。そんな人々に対してイエス様は、正反対のことを言われました。あなたがたのように今飢えている人々は幸せです。あなたがたのように今泣いている人々は幸せです。しかしその理由は、今現在の幸せではなく、未来への希望であり、その希望が幸福を保障しているのです。笑っている人は慰められることはありません。既に笑っているからです。でも、泣いている人は、泣いているがゆえに慰められるのです。そのような希望をもちなさいとのメッセージを、この箇所から読み取ることができます。私たちの人生は「今」がゴールなのではありません。将来への希望を神様の中に見ることで、神様からの「幸せ」を私たちは受け取るのです。これは、神様への信頼がなくては得ることのできない「幸せ」です。今は苦しくても、神様は必ず良いように導いてくれる信頼です。今日は、自分にとっての「幸せ」とは何なのかを分かち合いたいと思います。どんな時に「幸せ」を感じますか?将来への希望はありますか?それとも将来に不安を抱いていますか?また、キリスト者としての「希望」とは何でしょうか?
 旧約聖書のモーセの話も同じです。モーセという人物の手助けにより、神様の力が働いて、イスラエル民族は未来への希望を持つことができました。モーセは、イスラエル民族の苦しみに目を向けました。そして、イスラエル人たちのために献身し、神様との仲介役に尽くしました。「さあ出発だ!」という希望に満ち溢れたイスラエル人たちの喜びは、計り知れません。私たちは、人生の節目に「さあ出発だ!」と希望を抱いて、新しいことに臨むと思います。入学、進級、新学期、成人式や正月、就職だったり、引っ越しだったり、初めての活動や事業などなど、様々な節目があります。そんな時、神様への信頼ゆえの希望を抱いていますか?新しいことには、必ず多くの困難があることは想像がつきます。それでも私たちは、希望を持つことができるのです。これこそ、私たちの幸福の要です。
 最後に、息子を失ったファラオが「わたしをも祝福してもらいたい」と言ったこの言葉が、とても印象的です。「祝福」とは、相手の幸せを喜び祝い、相手の幸せを願うことです。私たちは、友達や知り合いの入学を祝福したり、結婚や出産を祝福したりします。誕生日を祝福したり、受験合格を祝福したり…、ほとんどの場合、喜ばしい出来事を共に喜び祝うときに祝福しますし、それは私たちにとって自然な行為です。しかし、ファラオの場合は不幸が起こった時に祝福を望んでいます。知り合いの子どもが亡くなり、その葬式の場でその両親を祝福することがあるでしょうか。しかし、ファラオは息子を亡くした悲しみに暮れながら、切実にモーセの祝福を求めています。ここに、ルカ福音の「幸と不幸」の話が思い起こされます。不幸の中に見る希望です。「祝福」とは、神様の恵みを頂くことでもあります。「こんな不幸な私を哀れみ、恵みを注いでください」。希望を見ることができない時のこの「祈り」こそが、一つの希望となるのでしょう。私たちは、この祈りを忘れないで生きていきたいものです。
 
ルカによる福音3章・創世記12章

イエスの系図・アブラハム

聖書にはイエス様の系図が、マタイによる福音書とルカによる福音書の2箇所で記されています。不思議なことに、それぞれ全く異なる系図が描かれています。系図に登場する人物が、全く異なるのです。共通して出てくる名前もといったら、ダビデとアブラハム、イサク、ヤコブ、ユダくらいです。マリア様経由の系図とヨセフ様経由の系図との違いだとする説もありますが、ここでは細かいことは省略します。

まずルカ福音では、イエス様が公生活を始める前の部分で系図が描かれており、その初めには「イエスはヨセフの子と思われていた」との記述があります。イエス様は神の子であり、実際はヨセフは養父としての父親です。ルカは全体的に、イエス様は神であることを強調して書いているため、この一言で、イエス様は神の子であることを表現しています。また、系図の最後の「そして神に至る」という言葉からも、それをうかがい知ることができます。さらには、ルカ版系図ではイエスからアダムまでさかのぼるということにも意図が含まれています。アダムとは罪の源泉です。これは、「罪に負けたアダムと罪に打ち勝ったイエス」ということで、アダムによってもたらされた罪の重荷から人類を解放する救い主を表しているのです。系図とは、神様の計画の歴史です。アダムから救い主の誕生までの歴史や神の導き、み摂理を、この系図から読み取ることができます。今日は、この救いの歴史を自分自身に置き換えてみたいと思います。私たちは皆、救いの歴史をもっています。現在の自分に至るまでの歴史です。ここに至るまでに、様々な出会いを経験しました。「この出会い」がなければ今の自分はなかっただろう、という経験はありませんか?あるいは「この出会い」がなければ「この出会い」はなかった、というように、数珠繋ぎになっている「出会い」を感じませんか?どの出会いも、神様の導きがあります。それを味わってみましょう。年度の終わりにあたり、自分の今までの出会いを振り返る時間にしたいと思います。

さて、この系図の中で重要な人物がいくつか出てきますが、今日はその中でもアブラハムについて読んでみました。アブラハムは「信仰の父」と呼ばれています。信仰を試される出来事が何度もありましたが、信頼のうちにそれらすべてを乗り越えました。「アブラハム」という名前は、「多くの者の父」という意味ですが、神様から名前を変えられる前は「アブラハム」ではなく、「神なる父は高くいます」という意味の「アブラム」と呼ばれていました。名前は、その人自身を表しています。アブラムは「神なる父は天にいらっしゃる」という信仰宣言をし、アブラハムに変えられ、「多くの者の父」となる約束を神様としました。名前を変えるということは、その人自身も変わらなければならないのです。キリスト信者の場合、洗礼を受けるとき、新しい名前を頂きます。この聖人のように生きようという決心、このように生きたいという希望が込められた名前です。今日は、自分の名前についても分かち合ってください。自分の名前も洗礼名も、大切にしたいと思います。

今日読んだアブラハムの話で大切なことが、もう一つあります。「契約」についてです。ここでは、神様はアブラハムを「大いなる国民」にすると約束をし、契約を立てます。聖書の中では、神と人間との関係は、この契約によって成り立っています。神様は必ず約束を守ってくださいます。まず、その信仰はありますか?旧約聖書における「契約」は、ユダヤ民族に対するもので、神の言葉を守っていれば救われるという約束です。それに対し新約聖書における「契約」は、全人類に対するものですが、イエスを救い主であると信じていれば救われるという約束なのです。私たちは「新約」を生きています。自分にとっての「救い」とは、何でしょう?イエス様を信じなければ救われない、ということではありません。では、「救い」とは何でしょう?自分は、何から救われたいと思っていますか?あるいは、イエス様は、私たちの何を救ってくださったのでしょう?この問いは、もしかしたら一生をかけて深めていくものなのかもしれません。

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